第38話 変態

 東郷明夫がそのことに気が付いたのは、本日の実験が終了し被験体のわずかな変化に満足しそろそろ帰ろうかと思った矢先だった。


(……やけに静かだな)


 いつもなら啜り泣く声や嗚咽が聞こえていたのだが今日は妙に大人しい。

 様子を見てみるが、変わった様子はない。

 じっと下を向いて動いていない。


(寝ているか気絶しているだけか?)


 そう考えるが、なんだか気になる。

 東郷はゆっくりと灰枝新が座っている場所へ向かう。


「……おい」


 目の前まで来ると、東郷はぶっきらぼうに呼びかける。

 だが新は反応しない。


「やはり寝ているだけか」


 そう結論づけて、やはり戻ろうと後ろを振り向いた瞬間。


 ――グゥゥゥウウ!!


 鈍く大きな音が部屋中に響き渡った。


 その音の理由を瞬時に理解し、嬉しくて思わず笑みが漏れ、後ろを向いた。


 灰枝新は未だ岩のように動かない。

 だが腹の中の猛獣は明らかに脈動している。


 ――調整の果てに稀に心身の変質や強化に加え、欲の範囲や解釈が拡大する。


 それは『欲の虫』の能力を底上げするだけでなく能力自体が一変する。

 まるで幼虫が蛹を経て蝶になるように。

 人間という殻を破って成熟し、より強力な存在へと進化する。


 灰枝茂はこの現象をこう名付けた。


「『変態した』!」


 東郷の叫びと同時に新を縛っていた拘束具がギチッという音を奏でる。


 足と椅子を縛っていた足枷も、後ろに回して繋いでいた手錠も、身体に巻き付いた鎖も。

 そして口を覆っていたマスクも。


 全てミシミシと悲鳴を上げ続け、やがてヒビが入った。

 摂取者専用の拘束具は東郷でさえ拘束されると絶対に破れないだろうと思うほどの強度を誇る。

 それをこの少年は――力ずくで。


 バキン!


 限界を迎え全ての拘束具が音を立てて砕けた。

 自由になった新はゆっくり顔を上げる。


 そこには、飢えた肉食動物のような鋭い目つきをした少年がいた。


「素晴らしい……」


 小さく呟くように東郷はそう言うと口角を上げた。


 室温はそれほど低くはないのに、口から白い煙が出てきている。

 椅子から離れても態勢は低く、腕はだらんと下げている。

 ポタポタと垂れる涎は酸が強いせいなのか、ジュッと地面を溶かした。

 新は口元についた拘束具の破片をペロと舐めると、噛み砕き飲み込む。


 その姿はもはや獣。

 人間のような理性や知性は感じず、東郷をじっと見ていた。


「俺を喰おうってか?」


 その眼は捕食者のそれ。

 だが、東郷は全く怖じ気づかない。

 むしろこの状況を楽しんでいるようだった。


「いいぞ、来いよ。俺を喰ってみろ」


 東郷は右腕の袖をゆっくりと捲る。


「だが俺も変態後」


 東郷の右腕は赤黒く変質し、大きな刃のように硬く鋭利になる。

 それどころか背中もボコボコと波打ち、刃を携えた緋色の硬い腕が六本、現れた。


「俺を喰い殺すんだ。殺される覚悟はしろよ?」


 その姿を見ても新は動じない。

 鋭い目つきで鋭い犬歯を見せ――笑っていた。


「いいだろう。殺し合いだ!」


「ガァァアア!!」


 その言葉を皮切りに新は東郷に飛び掛かった。

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