第3章

第25話 灰枝新は苦悩する

 バイト先のコンビニの裏に立ち、新はじっと自分の手に持っている物体を見つめた。


 全体が黒い三角形。

 乾燥しているためか、強く握るとパリッと音がして潰れ中身が柔らかい。


「これは食い物じゃない……食い物じゃない」


 新はそう言い聞かせて、ゴクリと唾を飲むと、


「い、いただきます……」


 意を決してそれに齧り付いた。


 パリッと音がして破片が地面に零れ落ちる。

 中からは白い粒がはみ出してくる。

 口の中に入り咀嚼した瞬間、


「――ウッ!」


 突然の吐き気。


 新は地面に座り込み、口の中にあるものをビニール袋の中に吐き出した。

 口の中が気持ち悪い。

 新はそばにあったお茶を取り、口を濯ぐ。


「やっぱりダメか……」


 新は力無く俯くと、地面に落としてしまったおにぎりを見つめた。

 清水との闘いで爆弾を喰えるようになったが、やっぱりまだ通常の食事は身体が受け付けない。

 あの時は無我夢中だったし爆弾という普通なら食べることがないものだったから、受け入れられたのだろう。


 それに爆弾とはいうが、あれは『スリルの虫』の残り香――つまり虫の一部が混ざっていた。

 もしかしたら虫も巻き込んだおかげで食べられたのかもしれない。


 じゃあ虫が混ざっていたら何でも食べられるのか、と言われればそうでもない。

 おそらくご飯の上に欲の虫がいたとしても、新にとっては通常の食事と変わらない。

 フラッシュバックはすぐに起きるだろう。


 調整チューニングはそこまで万能ではないらしい。

 結局は『欲の虫』と自分の身体、そして精神との折り合いだ。

 いくら『腹の虫』に通常の食べ物の摂取を、と願ってもどうしても自分の身体が拒否してしまう。

 そんな状態では調整したところで意味はない。

 余計に衝動が強くなるだけだ。


「仕方がないか」


 新は地面に落ちてしまったおにぎりを拾い、袋の中にポイっと入れる。


(それよりも――……)


 と思い浮かべるのは姉・灰枝色の顔だった。


★★★


 灰枝色。

 灰枝新の姉にして、灰枝家一家心中事件の被害者。

 というのは表向き。


 その実、性欲を増幅する『色の虫』摂取者であり、公安特異伍課が追っている組織のナンバー2だった。


 コードネームは『アスモデウス』。

 その名に相応しく彼女が犯した人物は数知れず。


 灰枝家一家心中事件があった6年前から1年で彼女の仕業と思われる死が50にも及んだ。

 そのどれもが男女問わずベッドの上で快楽に満たされた顔で逝っていた。

 ちょうどあの高校で見かけた彼らのように。




「――そして私たち公安が目標としている灰枝茂に最も近しい人物でもあります」


 そう締めくくったのは篠原侑里だった。

 特異伍課の部屋でホワイトボードを背にして、新に公安特異伍課が持つ灰枝色の情報を伝えていた。

 さすがにもう制服姿ではなく、キチンと黒のスーツを着て大人びた化粧をしていた。


「ただ3年前からその行動に目立ったものがなくなり、姿を消しました。

 公安の見解としては、彼女は既に他界。

 もしくはそれに近い何かがあったと考えていましたが……」


 まさか今になって姿を現すとは、と侑里は眉を顰めて頬を触った。


「ここまでで何か質問はありますか?」


「…………ある」


 ありすぎる。

 黙って侑里の説明を聞いていたが、この説明を聞いていても全く理解できない。


 大きく息を吐くと努めて冷静な振りをして小さく口を開いた。


「まず才さんは姉ちゃんが生きているように言っていましたけど……?」


「才ちゃんは公安の見解には否定的でしたから」


「……才さんは姉ちゃんと友達だったんですか?」


「わかりません。ですが旧知の仲であることは確かです」


「そもそもどうして表向きは死んだことに?」


「上層部の命令です。

 初めは本当に亡くなっていると考えていました。

 ですが、心中事件から1年後。

 ある捜査で都内のラブホテルの防犯カメラを調べていたところ、灰枝色に似た人物を見つけました。

 そこで調べてみたら、灰枝色と思われた遺体は全くの別人。

 更に灰枝色が摂取者との情報も。

 なので『欲の虫』を秘匿したい上層部としては、彼女が死んでいることにしておいた方が都合がよかったみたいです」


「……俺に教えなかったのもそういうことですか?」


 侑里は冷や汗をかきつつ恐る恐る頷いた。

 新に気を使っているのがわかる。


 だけどそんな侑里の気持ちに気付きながらも新は詰問する。


「まだあります。

 姉ちゃんとおじさんは本当に一緒にいるんですか?」


「それも断定できません」


「姉ちゃんはどうして最初の摂取者になんてなったんですか?」


「それも、ごめんなさい、わかりません」


「それに、6年前のあの事件の時、姉ちゃんは何をしていたんですか?」


「それは……」


「あとどうしてあの惨劇が起きたのか、もしかして本当の理由を知っているんじゃないか?」


「…………」


「俺の父さんや母さんは――!?」


「――殺されたのよ」


 矢継ぎ早に繰り出される新の質問に侑里が眉を顰めて言い淀んでいると、新の後ろでそんな声が聞こえた。

 後ろを振り向くと、扉を背もたれにして腕組みをした才が立っていた。

 左足には包帯が巻かれていた。


「殺された、だって? あれは心中だったんでしょう?」


 認めたくはない。新は声を震わせてそう才に抗議する。


「いいえ。新くんももうわかっているのでしょう?

 あの事件は、本当は、一家惨殺事件なのよ。

『色の虫』摂取者――灰枝色アスモデウスによるね」


「才ちゃん……!」


 その発言に侑里が咎めるように叫んだ。


「あんまりですよ。何もそんなはっきりと……!」


「あら。侑里も全て答えるつもりだったのでしょう?」


 才の言葉に侑里の声が詰まる。

 才は軽くため息を吐くと、


「新くんも大方察している。

 回りくどく言っても、ストレートに言ってもどうせ変わらないわよ。

 それこそ時間の無駄」


 冷淡に聞こえるが、新にとってもそっちの方がむしろ有難かった。

 変に遠回しに言われるよりかははっきり言ってくれた方が変にもやもやしなくて済む。


「それで……姉ちゃんが殺したのか?」


 低く鋭い声だった。

 落ち着いている風に装ったが、やはり感情は滲み出てしまう。

 刺すように冷たい新の声に侑里が、

「新くん……」

 と心配そうにぼやく声が聞こえた。


「そうよ。あなたのご両親を殺したのは灰枝色の能力に間違いない」


 一方の才は気にせずにはっきりと物を言う。


「……嘘だ」


 新の声が部屋の中に響いた。


「だって……俺は見たんだ!」


 断片的な記憶。

 ご飯を口に入れた時にしか見えないフラッシュバック。

 記憶にある映像はぼんやりとしているが、それでも才を、そして自分の洞察を否定する。


「姉ちゃんが殺しなんて、そんなはずあるわけない!」


「えぇ。普通ならね。

 けれど彼女は『色の虫』摂取者なのよ」


 新は真一文字に口を閉じた。


「『色の虫』は他者を操る。

 そして増幅させる欲は『性欲』。

 事件当時の現場検証の時、灰枝色と思われる遺体と父親の灰枝林治は重なるように倒れていたわ。

 ふすまの溝から流れる血は灰枝色の血液。

 そしてそれと混ざるように灰枝林治の体液も検出された」


「…………」


「母親からも死の直前、血圧の上昇や体液が大量に漏れ出た形跡――つまり過度な興奮状態であった証拠も出ているの」


「…………めろ……」


「灰枝林治は警察内でも、厳しく誠実でかつ愛妻家で有名と聞いている。

 セクハラや、ましてやキャバクラでさえ行かない程の徹底ぶり。

 そんな人が死の直前で実の娘に対して行為を働き、その様子を見て母親が興奮する?

 新くんだってありえないって思っているのでしょう?」


「…………や……め……」


「ならば灰枝林治は警察内でも知られなかったほどのド変態か、誰かに操られていたと考えるのが自然。

 そして灰枝色が『色の虫』摂取者だとすれば、彼女が実の両親に対して能力を――」


「やめろ!!」


 もう聞きたくなかった。

 あの時の惨状。


 忘れていたのに。

 記憶に蓋をしていたのに。

 生々しく如実に再生されてしまった。


(そうだ。あの時、父さんの腰は――)


「――ウッ……」


「洗面台ならそこよ」


 新は才の言う通りに部屋の中にある洗面台に駆け寄り、吐き出す。


 清水の事件以来、何も食べていないのが幸か不幸か。胃液しか出てこない。


「姉ちゃんが父さんと母さんを誘惑した……」


 そしてそれはおそらく初めての行使。

 摂取者としてはもちろん、人としても初めての――。

 新はふすまの溝に流れていた血の川を思い出した。


「だったらどうして俺は……?」


「さぁ。新くんはまだ幼かったからか、それとも愛ゆえか。

 どちらにせよ、新くんが誘惑されなかったのは不幸中の幸いね」


「愛……? じゃあなんで父さんと母さんは死ななきゃいけなかったんですか?」


 家族の仲良く笑みを浮かべる映像が脳裏を走る。

 灰枝家はずっと笑顔の絶えない生活を送っていた。

 刑事の父は忙しかったけど、それでも仲睦まじく幸せな4人家族だった。


 少なくともあの時までは。


 もし『愛』が理由で自分を殺さなかったのなら、父と母が殺される道理がわからない。


 失望と困惑が入り混じり、新は脱力する。

 公安でさえ、灰枝家の事件の真相は未だ掴めずにいるらしい。

 幼かったとはいえ当事者がわかっていないのだから当然か。

 そういった諦めに近い気持ちがのしかかる。


「ただ、ひとつだけ言えることはある」


 才の一言に新はおもむろに才の方に頭を向ける。


「あの事件はただのデモンストレーションだったのよ」


 新は思わず立ち上がった。

 髪が逆立ち、身体に電撃が走ったように怒りの感情が沸き立った。


「『ただの』? あの事件が?

 ただのデモンストレーションだって言ったか?

 俺の家族を奪ったあれが『ただの』だって言うのか!?」


「そうよ」


「ふざけろ!」


 才の端的な返事に新は声を荒げ、才の方に向かう。


「ちょっ! ちょっと新くん!! 待ってください!」


 それを全力で侑里が新の腰に手を回し止める。

 だが、新の怒りは収まらない。


「離せ!」


 あのふざけた脳みそクソ虫人間。

 ただでさえ自分は巻き込まれた身。

 わけもわからず虫に寄生され、生活そのものが一変してしまった。


 それなのに今の今まで一切真実さえ語ろうとしなかった。

 公安の事情だから仕方がないと怒りを抑えていたけど、今の発言は完全にダメだ。


 自分や自分の家族でさえバカにしている。

 一度ぶっ飛ばさなきゃ気が済まない。


 いや、むしろ――、


(喰ってやろうか?)


「何か勘違いしているようだけど、私はふざけてはいない。

 これは紛れもない事実よ」


 新は怒りのまま「は?」と口を開く。


「むしろそういうことでないと辻褄が合わない」


「……どういうことだ?」


「灰枝色が摂取者だと報告を受けたあと、あなたの家を再度検証した。

 刑事部ではなく今度は公安特異伍課でね。

 すると、今まで現場検証しても出てこなかった痕跡が残っていたことがわかったわ」


「なんだって?」


「あの事件当日、家の中には新くんの家族や灰枝茂だけでなく、もう1人いたのよ。

 正体不明の人物が」


 新は目を丸くして硬直する。


「私たちはボス――つまりアークのナンバー1と見ているわ」

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