第2話 摂取

 1日前。


 膝の上に置いたプレートを見つめて、新はゴクリと唾を飲んだ。


 プレートに置いてあるお椀の中に入った白いドロドロとした半固形物質をスプーンで掬った。

 口の中がだんだんとパサついてきて、スプーンに乗っている物体を見るたびに動悸が激しくなり、恐怖に包まれる。


「よし……」


 新は意を決して声を出すと、目を瞑りスプーンを口の中へ運ぶ。

 口の中でほのかに暖かさが包まれる。

 トロトロとした舌触りに、塩気が心地よく口中に広がっていく。

 咀嚼していくと固形状の粒々が柔らかく潰れ、唾液と良く混ざり甘味が増していく。


「ウッ!!」


 だが、途端に気持ち悪さが増していき隣の机に置いてあった小さいバケツに戻してしまった。


「大丈夫? 新くん」


 近くにいた看護師が落ちそうになったプレートを受け取り、背中を擦ってくれた。


「え……えぇ……大丈夫です」


 いつものことですから、と新は机に置いてある紙コップを手に取る。

 水を口に含むと少し濯ぎ、またバケツに吐き出す。

 口に残っていた不快感がいくらか削がれる。


「う~ん……やはりダメか」


 新の目の前にいる五十代くらいの主治医がそう呟きながら机にある問診票にメモを取る。


「うん。でも進歩だね」


 メモを取り終わると、男性は新に向かってそう笑みを浮かべる。

 その笑みを見て、「え?」と新は戸惑った。

 だが、彼は優しげな瞳で新を見た。


「僕が新くんの主治医となって6年。

 昔はね、ご飯を口に入れることすらダメだったんだよ?

 あの事件以来、君は全くご飯を受け付けなくなってしまった。

 食べられるものは飲み物や薬、それにゼリー飲料のみ。……固形物はてんでダメだった。

 けれど今はこのおかゆを口に運ぶことができる。6年前と比べたらすごい進歩だよ」


 先生は新の隈だらけの目と合うとニカッと口角を上げた。


「もしかしたら、あとは『覚悟』の問題なのかもしれないね」


★★★


「ありがとうございました」


 病院の外に出ると新はさっそく病院で貰ったゼリー飲料を取り出す。

 処方されるのは毎回、薬と栄養補給ゼリー飲料。

 1、2週間分あるから薬用とゼリー飲料用で袋は分けられていて結構重い。


 チューとゼリー飲料の口を吸うと同時に手でつぶすと、ドロッとした物体が口の中に入り込んできた。


「まず……」


 いつもの味だ。


 初めに人工的な甘みがあるかと思うと、後味はしょっぱい。

 完全栄養食といえば聞こえは良いが、このゼリーは人間が最低限死なないために作られたもの。

 だから美味しさ度外視。この6年で幾分か改善はされたけれど、味の楽しみは全くない。


「それでも胃の中に入れられるだけマシか」


 新はそう呟きゼリー飲料の容器を潰し袋の中に入れていると、視線に気が付いた。

 病院の横の電柱近くで主婦たち3人が集まりこっちをじろじろと見ていた。


「ねぇ……見て。あれ。灰枝新くんじゃない?」

「え? 誰でしたっけ?」

「あ、あれですよね。

『灰枝家一家心中事件』でしたっけ?

 警視庁捜査一課の刑事――灰枝林治はいえだりんじさんが亡くなった」

「懐かしい……もう6年かぁ」

「そうそう。夕飯時に起こった4人家族の悲劇」


 ひそひそと囁いているが、聞こえていないと思っているのだろうか。

 だが新は何もしない。


 こういうことはもう何度もあった。

 気にしているときりがない。

 無表情に聞こえていないふりをして、足早に主婦たちの横を通る。

 すると彼女たちは黙り込んでそっぽを向く。


「新くんも可哀想よね……両親もお姉さんも死んじゃって。そのせいでご飯が食べられなくなったとか」

「あ、だから病院に……」

「確か林治さんって茂っていう――元大学教授の弟さんいましたよね?」

「そうそう! 寄生虫学とかいう悪趣味なやつでしょう?

 確かあの事件の場にもいたとか!

 しかもそれ以降、姿を見せなくなったらしいわよ。

 怪しいわよね~……!」


 けれどまたひそひそと自分の噂をするもんだから、新は顔を顰めつつヘッドホンを手に取った。

 最近の流行りではない古い曲。

 音楽を聴けば聞きたくもない話も聞かなくて済む。


 だが、先ほどの主婦たちの会話で嫌でも思い出してしまう。


 灰枝家一家心中事件。

 新が小学6年生の時だった。

 事件のことは正直、今はもうよく覚えていない。

 だが、食べ物を口にした瞬間、あの時のことがフラッシュバックしてしまう。


 夕飯時に起きたからかもしれない。

 テーブルに並べられた豪勢な料理。

 和室とリビングの間に倒れた姉の微笑み。

 その上に覆いかぶさったスーツ姿の父の上下する腰。

 包丁を握った母の涙目で紅潮した顔。

 そして高笑いが響き渡る中、苦く口角を上げて唖然と立つ叔父の横顔。


 ご飯を口に入れるたびに、事件の一部が目まぐるしく想起してしまう。

 血塗れの料理を食べている気がして、内から込み上げてくるものが抑えられず。

 その結果、病院での一件みたいなことが起きてしまう。


事件の真相を知っているであろう灰枝茂はいえだしげるは未だ失踪中。

 警察ですら足取りが掴めていないらしい。


「…………やめろ」


 独り言のようにボソッとそう呟いて額を叩く。


 もう病院での診察は終わった。

 主婦たちもちょっかいをかけているわけではない。それにご飯も食っていない。

 もう家族はこの世にはいないんだ。

 いくら自分が思い出そうとしても、もう家族が帰ってくることはない。


 事件の真相は知りたい。

 なぜ母はあんなことをしたのか。

 叔父はその理由を知っているのだろうか。

 だったら叔父と話をしたい。

 けれど叔父を見つける手掛かりすらもない。


 だからもう思い出すな。忘れた方が良い時もあるのだ。


 そう言い聞かせて、新は音楽再生機のボリュームを上げ、周りを一切見ずに十字路を渡ろうとした。

 だがそんな風に外界を遮断していたからか、飛び出してくる人影に気付けなかった。


「あ……ッ!」


 横からの衝撃。

 その瞬間、きめ細やかで美しい金の長髪が新の顔を掠めた。


「いつつ……」


 左側からの急な衝撃に、体重の軽い新は吹き飛ばされ尻餅をついてしまった。

 その拍子にヘッドホンや持っていた袋も飛んだ。

 同じく新にぶつかった人も転び、持っていた袋を落としていた。


 長い金髪を携えた綺麗な女性というのが第一印象。

 その女性は上半身を起こしながらすぐに気が付いたように新を見た。


「大丈夫? ケガはない?

 ごめんなさい。急いでて……」


 と彼女は立ち上がり新に手を差し伸べる。

 その手を戸惑いつつ新は握ると、


「いえ……こちらこそすみません」


 何も見てなくて、と立ち上がる。


 大丈夫そうな様子に彼女はほっと息を撫で下ろす。

 だがすぐに思い出したように血相を変えると、道端に落とした袋を掴んだ。


「ごめんなさい。私、もう行くわね。とにかく無事でよかった」


 慌ただしく去って行ってしまった。

 その様子をしばらく見届けたあと、新も地面に落ちたヘッドホンと袋を拾う。

 突然の出来事で驚いた。

 あんなに慌ててどうしたんだろうか。


 オフィスカジュアルで清潔感のある大人っぽい服装だったから仕事に遅刻したのだろうか。

 それとも、悪い男から逃げてたり?


(まぁ俺には関係ないけど……)


 今の新にとってはどうでもいい話。

 もう一生関わることのない人だ。

 どこかで話のタネになるくらいだろう。

 そう考えて新は帰路に着いた。

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