伍 昭和二年

竹田家

 絵描きになるから上京すると言った時、すでに父は渋い顔だった。


 久しぶりの帰郷。父に近況を聞かれ、今は絵画とはまったく違う事をしている、と白状したら父は烈火のごとく怒り、僕と僕の客人を離れの納屋に閉じ込めてしまった。


「一晩そこで頭を冷やせ」


 それは、誰に対して放った言葉なのだろうか。僕と客人は同じ事をしているのに。いたたまれなくて、僕は彼に頭を下げた。


「先生、申し訳ありません」


「気にしないでください、竹田君。こういうところで寝泊まりするのは、馴れっこです」


 そんなはずはなかろうが、先生は僕に気を使ってそう言ってくれる。


「むしろ、せっかくの親子の再会がこんな形になってしまって、こちらこそ申し訳ない事です」


「大丈夫です。元より仲は良くないですから」


 父は、前妻との間にもうけた兄だけを可愛がる人だ。僕と、後妻である僕の生母には冷たい。僕にとって実家に帰ることは、父の冷遇を受けることを意味した。しかし、それはどうでも良い話だ。


 今回の目的地はここではない。明日はいよいよ山向村(やむこうむら)に入る。少なくとも半日は歩きづめだ。疲れた身を休めなければならない。


 僕は、納屋の奥にあるワラ置き場に横になった。


 意外と寝心地は悪くない。


「先生。とりあえず今日は休みましょう。いささか寒いかもしれませんが、ご容赦下さい」


「構いませんよ」


 僕の隣に、先生も寝転がった。


 冷えないように、横たえた体にワラを乗せる。


「それでは、おやすみ竹田君」


「おやすみなさい、先生」


 そう言い合ったは良いが、僕は朝までに父をごまかす口実を考えないといけない。寝つけぬ夜になりそうだった。


       *


 ……とは言ったものの。


 結局何も思いつかないまま、僕は眠りについてしまっていた。そこへ、なにやら小さく鈍い物音がして目を覚ます。


「何だ、今のは」


 訝しさを拭うため、ワラの寝床から立ち上がって音がした引き戸の辺りへ向かった。


 ゆうべ父がかけたつっかえ棒が外れたのかも知れない。淡い期待を込めて引き戸に手をかけると、果たしてそれはあっさりと開いた。


「……?」


 理解が追い付かないまま、僕はそっと納屋から顔だけを出して外の様子を見ると、庭を掃き掃除している母と目が合った。


 母は僕に気が付くと、こちらへ視線を固定したまま家の門の方へ顔を向けた。そして、そちらへ促すようにクイと顎をあげる。


「……どうかしましたか」


 僕が動いたせいで起きたのだろう。いつのまにか先生がワラから体を上げていた。


「先生。ちょっと早いですが、出発しましょう」


 後ろにいる彼を見ながらそう言うと、僕は納屋の外に出た。


 先生は少し首をかしげながらも僕に倣ってくれた。そして静かに引き戸を閉めて振り返ると、そこで母の存在に気が付き、笑顔で会釈をした。


 母はそれへ、表情を変えないまま一礼を返すと、再びほうきを持つ手を動かしだし、もうこちらを見なくなった。


「どうやら、私たちは助けてもらったようですね。貴方のお姉さんですか」


「母です」


「へえ。お若いですねえ」


「さ、急ぎましょう。父が起きてくる前に」


 二人はもう一度母に頭を下げると、そのまま家を後にした。

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