第10話

【七月三十日】

 あの店のことも、あの魔法の紙のこともすっかり忘れた、三日後のことだった。

 民族学の試験を終え、肩の荷が下りたような気分のまま講義室を出ると、背後から話しかけられた。

「あの、水無瀬さん」

 振り返るとそこには、何か言いたげな青村さんが立っていて、白くしなやかな手が、泳ぐように僕の方に伸びていた。

「青村さん、どうしたの?」

「あ、その…」

 彼女は一瞬、喉の奥に言葉を詰まらせたが、すぐに落ち着きを取り戻したように言った。

「試験も終わったので、その…、何か食べませんか?」

「ああー」

 思ってもいないお誘いに、僕は後頭部を掻いて、これからの予定を脳裏に浮かべた。

 微妙な反応を見せた僕に、青村さんは慌てて首を横に振った。

「あ…、もしかして、何かありましたか? だったら、お気になさらないで、行ってください」

「いやまあ、確かに、これから東雲先輩のところに行くつもりではあったんだけど…」

 そう言うと、曇っていた彼女の眉間に皺が寄った。

「あ、ダメです。あの人のところには行っちゃだめです」

「まあ、そう言うと思ってたよ」

 僕は肩を竦めると、出口へと続く階段の方を指した。

「大した用事じゃないし、先輩のことは無視してもいいよ。何が食べたい?」

 先輩のところに行ったって、どうせ一緒にコンビニ行って、味気の無い弁当を奢らされるだけだ。楽しくないことはないのだが、たまにはこういう、誠実な女の子に奢って気分を変えるに限る。

「あ、一緒に行ってくれるんですね」

 青村さんは意外そうな顔をしつつ、背中のリュックを引き寄せ、中に手を突っ込んだ。

「それじゃあ、私、試験勉強で頭が疲れているので、甘いものが食べたいです…」

「甘いものね。わかった」

 正直、僕はラーメンが食べたい気分だった。

「じゃあ、近くのカフェとか?」

「いや…、実は私、堂々咲製菓の割引券をもらっていまして…」

 そう言いながら、青村さんがリュックの中を弄る。そして、首を傾げた。

「あれ? どこに仕舞ったっけ?」

「割引券って言ったって、たかだか百円だろ? 僕が奢るから、気にしなくていいよ」

 その言葉に、青村さんの動きが固まった。

 ロボットのようなぎこちない動きで顔を上げた彼女は、じとっとした目を僕に向ける。

「あなた、東雲さんに十二万貸してましたよね? そういうこと言える立場ですか?」

「あ! いや!」

 確かに、お金の大切さを軽んじる発言だった。

「それに、奢るのは私ですから。水無瀬さんは気にしないでください」

「いやいや、そう言うわけにはいかないよ…。僕も一応男なんだからさ」

「人の厚意を無下にしちゃいけません」

 そう、ぴしゃりと言って僕を黙らせた青村さんは、再びリュックを覗き込んだ。

 彼女の手が中を弄り、その「割引券」とやらを探る。

 そんな青村さんを眺めていた時、講義室から出てきた他の女子らが、僕の横を通り過ぎた。

 その時、彼女らの会話が、偶然僕の耳に飛び込んでくる。

「ねえ、ヤバいよね。三回生の下熊さん」「やばいやばい」「あれは無いわ」「もう大学に来れないんじゃない?」「マジで気持ち悪いよね」

 鼻を突く甘ったるい香水と、化粧の匂い。それに混じって、誰かのことを嘲笑するような会話が、僕の鼓膜を揺らした。

 僕のことではないというのに、その冷たい口調に、胸がチクリと痛んだ。

 思わず、行ってしまった女子らの方を振り返る。

 女の子らは相変わらず大きな声で、その下熊…って人のことを話していた。

「廊下で全裸になってたんでしょう?」「そうなの。私見たのよ」「いやー、どうだった? 大きかった?」「小さかった!」

 わっはっは! と、下品な笑い声。

「どうしました? 水無瀬さん」

「あ…」

 青村さんの声で、我に返る。

「ああ、いや」

 行ってしまった女の子の断片的な会話から判断するに、「三回生の下熊さんが、廊下で全裸になっていた」とのことらしいが、そんな下品な話を青村さんの前で掘り下げるわけにもいかなかった。

「何でもないよ」

 僕はそう言って、首を横に振った。

青村さんは「はあ…」となんとなく頷き、再びリュックの方に目を向けた。そしてすぐに、「あった!」と歓喜の声をあげる。

「ありました。堂々咲製菓の、ケーキ半額券!」

 そうして取り出されたのは、ケーキの割引券だった。

 目を輝かせた彼女は、僕の方を向き、嬉々として言った。

「じゃあ、行きましょうか。私、甘いものが食べたい気分なので!」

「ああ、うん」

 さっきの、下熊さんがどうのこうの…という話は気になったが、多分、十分もすれば忘れることだろう。

 僕は青村さんに微笑みかけ、彼女の背を追った。

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