第8話

 店主は首を傾げ、そう提案した。

『ほら、棚の下…、そこに、瓶があるでしょう?』

 そう言われて目を向けると、確かに、手のひらに収まるくらいの小瓶が置いてあって、きつく栓がされたその中には、真っ黒な…泥水のような液体が揺らめいていた。

「こ、これは?」

『それも恋の魔法だよ。もう少し噛み砕いて言えば、惚れ薬だね』

「惚れ薬…」

 ということは、この液体を意中の相手に飲ませるのか? いろいろ危なそうだが…。

『値段は五万円。相手に飲ませるだけで、その人は君に惚れるよ?』

「いやあ…」

 ペンダント同様気になりはしたが、やはり五万は高い。

「それに、魔法なんて信用してませんから」

 冷静になって考えれば、この店主が勧めてくるものはすべて、たまに会った知り合いに勧められる「幸運になれる壺」のようなものの可能性があった。

「他に安いものはないんですか?」

 おどけたように言いながら、ふと目に入った香水のような小瓶を掴む。

「これとか」

『ああ、その香水には、人を引き寄せる魔法がかけられているよ』

「引き寄せる魔法?」

『うん。簡単に言えば、人望を厚くする魔法だね。使い方は簡単。身体に振りかけて行動を起こすだけでいい。その匂いを嗅いで、君の一挙一動を見た者はみんな、君を尊敬のまなざしで見ることだろうね』

「で、価格は?」

 指を二本立てる店主。

『二十万』

「高いなあ。もしかして、この店の商品全部、そのくらいの値段ですか?」

『そうだねえ』自虐気味に笑い、頷いた。『魔法は、不可能を可能にする力だからね。そのくらいの額をつけなきゃならない。というか、この額をつけても安いくらいだよ』

「まあ、それはなんとなくわかるんですが」

 僕はため息をつき、小瓶を商品棚に戻した。

「万もするものは買えません。くどいようですが、魔法は信用していないし」

『だったら、試してみる?』

 まるで、待っていました。と言わんばかりに、店主が言った。

 彼女は椅子から立ち上がると、黒いネイルが輝く指で、ある方を指した。

 そこに目を向けると、「試供品」というポップが貼られた棚があって、そのバスケットの中に、スマホくらいの小さな箱が入っていた。

「これは?」

『それは試供品。初めてのお客さんは、いつもそれを勧めているの』

「うーん」

 なんだか、完全に店主の手中に嵌っているような…。

とにかく手を伸ばし、箱を掴む。すると、触れた指先に、ぴりっ…と電気のようなものが走った。痛いわけではなかったから、そのまま持ち上げ、まじまじと観察する。

 黒い箱。和紙のような、粒っぽい表面には、金色の魔法陣が刻まれていた。

「……あの、これは、何の魔法ですか?」

『変化魔法』

 店主はニコッと笑って言う。

『厳密に言えば違うけど、かみ砕いて言えば、人を動物に変える魔法だね』

「人を、動物に、変える魔法…」

 そう聞いて、僕はゴクリと唾を飲みこんだ。

 試供品ならば、ここで開けても構わないだろう…と、無防備な考えのまま、箱に爪を立てて開ける。

 引っくり返すと、僕の左手の上に、三枚の古ぼけた紙が落ちた。

「…これが、人を動物に変える魔法?」

 思っていたのとは違うものが出てきて、僕は怪訝な顔をしながら首を捻った。

「ただの紙に見せるのですが…」

『一見ただの紙だけど、ちゃんと、変化魔法をかけてるから大丈夫だよ』

 店主は笑みを含んだ声でそう言うと、音もなく立ち上がった。

 ふわっと、柔らかな動きでカウンターを乗り越え、こちら側に立つと、歩いてくる。

『使い方は簡単。表面…つるつるした面に、人の名前を書き、頭の中でその人の姿と、変化した後の姿を思い浮かべるだけ。そうすれば、その紙から魔力が放たれて、その人の姿を変化させてしまうの』

「はあ…」

『はい、これ、説明書』

 店主はそう言うと、どこからともなく取り出した説明書を、僕の左手に乗せた。

「ありがとうございます…」

 反射的に礼を言うと、三枚の紙と一緒に、説明書を箱に戻した。

「興味深い魔法だけど…、使い道がなあ…、よくわかんないな」

 人を動物に変えてどうするんだ? だったら、さっきの恋の魔法とか、人望を集める魔法の方が有益のように思えた。いやまあ、試供品だから、こんなものだとは思うが。

 いやそもそも、魔法は信用してないし。

 首を捻る僕に、店主は笑いかけた。

『その魔法の使い道は基本、人を呪うためにあるよ』

「え…」

 物騒な言葉に、身体の血が一瞬動きを止める。

「人を、呪うんですか?」

『ええ。使い方次第では、人をノミに変えたりすることが出来る魔法だからね。嫌いな相手を変化させて、復讐するの』

「そんな怖い魔法を、試供品にするんですか?」

 恐々という僕に、店主は笑った。

『試供品だからね。ちゃんと効果は抑えてるよ。製品版の方は効果が半永久的なのに対して、試供品版の効果は半年。他にも、製品版は魔法が及ぶ範囲が半径五十キロなのに対して、試供品版は半径五十メートルと結構狭いの』

「はあ、なるほど」

 そう聞くと確かに、大した魔法ではないように思えてきた。

「でもなあ、人を動物に変える魔法なんて、たとえ効果を落としていたとしても…、欲しいとは思わないよな…」

『別に、それを買えって言ってるわけじゃないでしょう?』

 店主は肩を竦めると、半歩下がった。

 ふわりと揺れる銀色の髪。店に差し込む鈍い光を反射して、その金色の瞳が妖艶に輝いた。

『もしも、魔法を使った相手が本当に姿を変えたのなら、あなたは魔法を信じてくれるでしょう? そうしたら、また買いに来てほしいの。そして今度はきっと、恋の魔法も、迷うことなく手を出してくれると思うから…』

 まるで彼氏にねだる女のように、甘えた声で言った店主は、こくりと首を傾けた。

『じゃあ、また来てね』

 次の瞬間、パキンッ! と、ガラス片を踏みしめた時のような、亀裂の音が辺りに響いた。

 身体ごと攫わんとする勢いで、生ぬるく重々しい風が背後から駆け抜け、目の辺りにちりっとした痛みが走った。

 思わず顔を伏せ、再び顔を上げる。

「…あ」

 僕は、見覚えのある商店街の真ん中に立っていた。

 ちょうど、近くのマイクから正午を告げるイッツアスモールワールドが流れている。

 道行く者たちは、たびたび頬の汗を拭い、その足取りは砂漠で遭難したかのようにおぼろげだった。

 ちりんちりん…と自転車のベルの音。思わず振り返った時、肩すれすれで、高校生らしき男の子が駆け抜けた。そんな道の端には、「商店街の中で自転車には乗ってはいけません」と書かれた看板が立っている。

 ああ、帰らないと。

 そう思い、一歩踏み出した時、手に何かを握っていることに気づいた。

 見ると、それは薄い箱だった。

「あ…」

 先ほど体験した、白昼夢のような出来事が本当にあったことであると示すように、その箱に使われている紙は重厚で、手に吸い付くようなキリっとした表面をしている。

「ああ、そうか」

 僕は反射的に箱の淵を掴み、溝に爪を引っかけ、そして、開けていた。

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