第5話

 僕は先輩の華奢な肩を撫でた。

「マジですみません。せっかくのお誘い申し訳ないんですが、お断りさせていただきます」

「はあ…、わかったよ。君には普段から世話になっている身だからな。無理は言えん」

 先輩は普段から、金遣いが荒く、人を小ばかにして、湯でて人間性の部分だけを出汁に取ったのちに残った、二酸化炭素製造機のような人間だが、こういうときばっかりは、人の気持ちを尊重してくれる。だから、青村さんにああ言われても、僕は彼女のことが嫌いになれなかった。

 それに、文芸部に所属する彼女が書く文章は、侃侃諤諤ながら、のど越しのいい清涼飲料水を傾けるように脳に染みこみ、一滴の不快感も残さない流麗なつくりになっており、彼女の瞳の奥底の聡明さが見え隠れするようだった。

 そういうところがあるから、僕は彼女と一緒にいることを好んでいるのだった。

「一緒についてきてくれたら、何でも言うこと聞いてあげようと思ってたのになあ…」

「は?」

 前言撤回。

「なんですか?」

 僕は首を曲げて傾聴していた。

「いやだから、一緒について来てくれたら、何でも言うこと聞いてあげようと思ったんだよ」

 先輩はフフッと笑うと、揉み ほぐされて軽くなった肩を竦めた。

「君にはいつも世話になっているからね。このくらいの好条件を出さないと割に合わないと思ったんだ。でもまあ、無理なら結構」

 ちらちらっ…と横目が僕を見る。

「私一人で行ってくるから」

「ええ、行ってきてください」

「ずこーっ!」

 僕の淡白な口調に、先輩は昭和の風味を感じさせる大げさな勢いで椅子から滑り落ちた。

 キッ! と僕を睨む。

「おい! この可愛い先輩が、『なんでも言うことを聞いてやる』って言ってるんだぞ! そこは、性欲に負けて『僕も行きます!』って言うのが普通じゃないか! そして、同じ旅館の同じ部屋の、同じ布団の中でくんずほぐれつ、にゃんにゃん…」

「うん、うるさい」

 僕は先輩の鼻を摘まんだ。途端に、彼女の喉の奥で言葉が暴発し、静かになる。

「いやまあ、行きたいのはやまやまなんですが、マジで夏休み中はバイト三昧でして…、遠出する余裕は無いんですよ」

「この金の亡者めが。なんでそんなにバイト入れる必要があるんだね」

「てめえに金を貸してるからだろうが!」

 競馬やらパチンコやらをやりこんでやる奴に「金の亡者」だなんて言われたくなかった。

「うーむ…」

 先輩は納得いっていないように口を結ぶと、床にしゃがみ込んだまま、僕の袖を引っ張った。

「なあ、頼むよぉ…、一緒に来てくれよ」

「先輩が僕以外の人間と話すことができない人見知りってのは知ってますが」

 …いや、内弁慶か?

「マジで無理なんですよ。九月に入ってからだとまあ、何とかなるかもしれませんが」

 これ以上うだうだやっていても時間の無駄だったので、僕は踵を返し、扉の方に向かった。

「とにかく、今は忙しいので、誘うならまた今度お願いします」

「くそ、わかったよ」

 先輩はそう吐き捨てると、八つ当たりかのように、足元にあった原稿の束を蹴りつけた。

「あ…」

 思い出したような声をあげる先輩。

 先ほど蹴りつけた原稿の束の紐を持つと、僕に掲げた。

「帰るんだろう? だったら、ついでにこれ捨ててけ」

「ああ…、そういや、明日は古紙回収でしたね」

 別に原稿の束くらいならいいか…と思い、僕は先輩からそれを受け取った。

「それで? 結局どうするんですか? 一人で卒論書くんですか? いやまあ、当たり前の話ですけど」

「私一人で旅行ができるわけないだろ? 君に暇な時ができるのを待つよ」

「そうやって先延ばしにして、今年も留年するのでしょうね」

 そう言うと、先輩は無言のまま僕の脇腹を蹴りつけてきた。

 舞い上がった先輩のスカートから覗く生足に少しドキッとしながら、原稿の束を抱えて半歩下がった。

「九月からならいけるんで、また声かけてくださいよ」

「おう。多分忘れるから君がかけろ」

「ほんと、自覚ないんですね」

 などと、いつも通りの会話をした僕は、先輩に手を振った。

「それじゃあ、また明日」

「おう、元気でな。また来いよ」

 先輩も手を振り返す。

 部室を出た僕は、階段を使って一階まで降り、トイレで用を足してから外に出た。

 相変わらず、外は地獄のような暑さだった。せっかく冷えていた肌も、すぐに熱を取り戻し、塩辛い汗を浮かばせる。

 僕は早歩きで学生会館の裏手に回り、そこにあったゴミ回収場に近づいた。

 学内で出たゴミの数々が一か所に集まるそこは、心なしか雑巾を絞ったような臭いが漂っている。それに、風通しが悪いから、一層蒸し暑い。

 僕は極力息をしないよう進み、奥にあった「古紙回収」と書かれたエリアに踏み入った。

「よいしょ」

 なんておどけたように言いつつ、原稿の束を置く。

ふと見ると、綺麗な装丁をした小説が、束になって捨てられてあった。

 なんでこんなところに小説が? と思いつつ、しゃがみ込む。よく見ると、背表紙に図書館の分類番号シールが貼られていた。

 ああ、なるほど、図書館で貸し出されていた本か。きっと蔵書が増えて本棚を圧迫するから、いくつか捨てられているんだろうな。

 一瞬、「回収したら先輩が喜ぶかな?」と思ったが、すぐに鼻で笑った。

 これ以上、あの部室を本で埋め尽くしたら、そのうち床が抜けてしまうだろう。それに、先輩は自分の興味あるものにしか目を向けない。この小説を持って帰ったところで、結局部屋の隅で埃を被ることは目に見えた。

 僕は汗を拭って立ち上がった。

「あ…」

 その瞬間、あることを思い出して声をあげる。

「そういえば…」

 パーカーのポケットに手を入れると、硬い紙の感触が指先に広がった。

 そっと取り出したもの…、それは、長方形の薄い箱。

 和紙のような粒っぽい表面には、金箔のようなラメがちりばめられ、その中央に金色の魔法陣が刻まれている。軽いというのに、手に吸い付くような重厚感をもったそれを開け、引っくり返すと、中から三枚の紙が出てきた。

 箱に入ったその紙は正方形をしていて、大きさは、一辺五センチほど。質感は、箱と同様に半紙に近い。日に焼けたような小麦色をしていて、所々、黒い斑点がちりばめられていた。

 裏表…と見てみるが、特に何も書かれていない。

 ただただ、古ぼけた紙が三枚、僕の手に握られているだけ。

「……これ、どうしよう」

 先輩に会った時に話して見よう…と思っていたのだが、結局、「肩を揉む」「肩を揉まない」「先輩に同行する」「先輩に同行しない」云々の話をしている内に忘れていた。

 仕方ない、もう一度戻るか。

 そう思い、一歩踏み出す。

次の瞬間、学生会館の白い壁に留まっていた蝉が、ジジジッ! と嫌な鳴き声を上げ、飛び立った。

 たちまち、僕の意識は、この閉鎖的な空間に溜まった熱気に引き戻される。

 手の中で、カサ…と音を立てる紙。

「…ああ」

 なんて洩らし、頬の汗を拭う。

 ため息をつき、建物の隙間から見える青い空を見上げた。

 思い出されるのは、一週間前の出来事だった。

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