第3話 父さんと母さんは
誓いの日から数か月が経った。季節は巡って冬となり、オルテとエリーの共犯者という関係は今も続いている。それまで秘密が発覚するようなこともなく、別日にあらかじめ多めに花を摘んで、サボタージュの日に持ち越すことで上手く誤魔化していた。
授業で教える科目も徐々にレベルが上がった。マザー・ミカの教え方が上手なためか、子供たちの殆どはオルテよりも年下なのに、よく授業についてきている。なので、オルテ自身も負けじと勉学に精を出すようになっていた。ただ、ミカが教える授業の中でも『化学』――とりわけ放射性物質に関する知識だけは、他よりも進んだ領域に足を踏み入れていることは明らかで、不可解だった。
ミカのことを疑うつもりはないが、一体これのどこが、『社会に出た時に必ず役に立つこと』なのだろうか。とかくそんな疑問が頭を占拠するので、オルテは化学だけはどうも好きになれなかった。
ある日の朝、マザー・ミカがオルテを呼び止めて、孤児院内の機械に故障がないか確認してほしいと頼む。冬にあっても、やはりミカの微笑みを受けるとオルテの心は暖かくなった。
「そういえばオルテ、最近鼻血を出さなくなりましたね」
ふとミカがそう言うので、思い返してみる。確かにここのところ、ふいに鼻血が出ることも無くなった。それに伴って彼女に看病をしてもらう機会も減ったのだが。それは少し寂しいことだけど、成長の一つなのだと思うことにする。
「何かあったら言ってね。お薬も出してあげますから」
「? はい……」
鼻血程度に薬を出すほどのことだろうか。オルテは首をかしげつつも、彼女の厚意を疑うつもりもないため、気にせず自分の仕事に戻った。
オルテは後から、孤児院は寒い時期になるとよく機械が故障するという話をエリーから聞く。キッチンのコンロ、暖房機に洗濯機。更には配管が古くなって危ないからと、交換工事をすることもあった。自分の知らない所で、マザーはそれらの工面に苦労しているらしく、彼女は国の高官に連絡を取って、度々業者を手配していた。
オルテもそれらしい人間は見たことがある。大げさな防護服を身にまとった人たちで、よほどの寒がりなのだろうか、といつも遠目から見守っていた。
その日の授業のこと。オルテは近頃授業で褒められることが多く、よくマザー・ミカに頭を撫でられていた。しかしそれが後ろの席のエリーには気に食わなかったのか、よく鉛筆の頭で背中を突いてはちょっかいをかけることが日常になっていた。その日も「なんだよ」と振り向くが、彼女は何も言わず、ただ不満げに顔を逸らすだけだ。その態度に思わず、オルテは口をついて言葉が出てしまう。
「言いたいことがあるなら、はっきり言ってくれればいいのに……」
ついそうこぼすと、エリーは逡巡し、口ごもってしまった。まずい、余計なことを言ってしまっただろうか。気まずくなって向き直ると、少ししてから小さな声が聞こえた。
「……じゃあ、今夜、部屋で待ってて。話したいことがあるの」
「えっ」
またも振り向いたが、エリーは既にその場に突っ伏して、狸寝入りに入ってしまった。だがよく見れば、彼女の耳がわずかに赤らんでいるのが分かる。
今夜、まさか、部屋で二人きり? それってつまり――。
齢十四ながら、オルテにもエリーの言ったことが分からない訳ではなかった。むしろ、その意味が分かるからこそ、彼女が再び顔をあげようとする前に向き直って、平静を装うのに必死になった。教壇ではマザー・ミカが中等部レベルの、機械工学に関する入門的な知識を解説している。近々はんだ付けを実践しましょう。火傷には十分注意しましょう。ミカの柔らかな声はいつもオルテを癒してくれたが、この時だけは何も頭に入ってこなかった。
昼飯時が過ぎて、仕事の時間になる。オルテはミカから頼まれた孤児院内の設備の確認をするため、畑に出ることはなく、施設の中をあちこち回っていた。今日ばかりはサボタージュも無理だろうと、エリーにもあらかじめ断りを入れている。
冷蔵庫、異常なし。
洗濯機、異常なし。
暖房設備、異常なし。当然、配管も確認した。
照明も水道も、施設の隅から隅までくまなく確かめる。そうしてミカから渡されたチェックリストの殆どが埋まった頃、聞き馴染んだ声が聞こえた。
「張り切っていますね、オルテ」
現れたのはミカだった。彼女は懸命に働くオルテの頭を、褒美と言わんばかりに優しく撫でる。オルテはむずがゆい心地がしながらもそれを受け入れた。
「もう殆どチェックが済んでいますね。ただ……」
ミカはペンを取り出して、殆どのチェックボックスに印をつける。
「それは……?」
「これらの箇所は、私が個人的に故障を確認したものです。――ああ、専門的なことなので、まだ分からなくても仕方ないですよ」
彼女はそう言ったが、しかしオルテはどこか申し訳ないという気持ちになった。仕方がないと言えども失敗は失敗な訳で、彼女に直接頼まれた仕事を満足にこなせなかったことに、少年は気を病まずには居られない。
「……ご、ごめんなさい。もう一度やり直します。その、どこが悪かったのか教えてもらえませんか」
おずおずと申し出るオルテに、ミカはそんな彼の心を察してか、ふふ、と小さく微笑んだ。
「オルテは私のため――『丘』のために役立ちたいと思っているんですね?」
「えっ、その、えっと……!」
突然の問いかけに戸惑いながら、オルテはこくりと頷いた。冬だというのに汗が背中に浮き上がる。もしかして、自分が彼女に向ける憧憬の眼差しを見透かされていたのだろうか。
ミカは少し考え事をした後、ある提案をした。
「今晩、私の部屋に来てください。これとは別の頼み事があるんです」
彼女はそう言ったが、しかしそれはエリーとの約束の時間と同じ頃だった。ミカの頼みを受けてしまえば、エリーを裏切ることになる。しかしエリーの約束を優先すれば、今度はミカを失望させてしまうかもしれない。
オルテは悩んだ。数舜の間に何度も考えて、何度も断ろうとして、しかしプライドがそれを許さなかった。そうして思い悩むうちに、ふとミカが口を開く。
「君は他の子よりも利口で、責任感が強い。それはきっと両親に愛されてきたからだと思うのです」
「……ど、どういうこと?」
「例えば君と仲の良いエリーは最初、今よりも随分と棘のある性格でした。それも仕方のないことで、実は彼女も、両親に売られてこの『丘』に来ているのです。でも、君だけは違う。誰よりも穏やかで、利口で、物事に責任を持つ。その心の余裕は、親から受けた愛の多さに比例していると私は考えています」
つまり、と彼女は続ける。
「これは君にしか頼めないことで、とても大事なことなのです……。頼み事が上手くいけば、両親に会う日もそう遠くないかも知れません」
少年の胸が高鳴った。父さんと母さんに会える――。
「あまり猶予がないので、出来れば今晩、落ち着いて話がしたいんです。どうかよろしくね」
細く綺麗な指がオルテの頬を撫でる。それはあの『秘密の花園』に吹く風よりも心地よく、こそばゆい。少年にとって、誰かにここまで認められたのも、自分という者をここまで思ってくれたことも初めてのことだった。オルテの胸の内は今やそんな思いで満たされてしまい、悩みの種であったはずのエリーとの約束事は、その感動の前ではあまり重要ではなくなっていた。
「オルテ、いる?」
夕食後、部屋の前で少女の声がした。扉を開けると、そこで見えたのはエリーの姿だ。
オルテは結局、中間の選択肢を取ることにした。エリーとの話をなるべく早く切り上げ、その後にミカのもとへ行く。上手くいけばどちらも失望させることはない。仮にミカとの約束に遅れてしまったとしても、それは子供の身ならただ叱られ、少しの信用を無くすだけだ。しかしエリーに対しては、何故だかこの信用を損ないたくはない。オルテは自分の心に素直になって、その選択肢を選んだのだった。
二人して窓辺のベッドに腰掛けて、少しの沈黙が流れる。暖色系の照明がぼんやりと自分たちを照らすが、部屋の隅は仄暗い。ふと窓から冷たい風が吹いたその時、耐えきれず口を開いたのはオルテの方だった。
「その、話って……なに」
左隣にいるエリーの手がぴくりと動いた。彼女も緊張しているのか、平生よりも弱気な声で、しかしオルテに聞こえるようにはっきりと、その言葉を告げた。
「……一緒にこの施設から出ましょう」
「えっ?」
思わず、エリーの方を向く。
「私、今日見ちゃったの。森の奥にある地下工場の中に、ミカが入っていくところを……」
この日、オルテが頼まれごとに奔走している間、エリーは一人あの『秘密の花園』に足を運んでおり、そこであのミカの姿を見てしまった。更に奇妙なことには、ミカはあの工場から出てくることはなく、いつの間にか孤児院に戻っていたのだという。
「ど、どういうこと。なんでミカがあんな所に」
「でも考えてみれば当然だわ。孤児院の代表者なんだから、あの地下工場を知らないはずがないもの。花を燃やしていた理由は知らないけど、あの女、頻繁に業者を呼んでいたでしょ? 修理とか適当なこと言って、国の偉い奴と何か企んでたのよ! 分からないけど、きっとろくでもないことを私たちにするつもりよ。二人でこの施設を出ましょう!」
「そんな、何を根拠に……!」
「根拠なんて充分でしょ! ここに居るのは皆、戦争で貧しくなって、親に見放された都合の良い子供たちなんだから! 私も――」
エリーは言葉に詰まったようにして俯いた。思い出したくない過去を思い出して、自ら苦しんでいるようだ。しかしオルテは、それでも彼女の名誉にかけて反論せざるを得なかった。
「確かに少し気になるところもあるけど……それでもミカは悪い人じゃないよ。だって、あの人は僕たちのことを気にかけてくれるし、勉強も仕事も何もかも、自分の手で教えてくれるんだ。そんな人が、何かを企んでるなんて……」
「それって……ミカのことが好きだから?」
俯いたまま、エリーは言った。
「ち、違う! 僕は――」
「どうせミカがアンタに何か言ったんでしょ。それで本気になって信じて……。馬鹿みたいだわ」
その時オルテは勢いよく立ち上がって、しかしエリーには直接目を合わせずに言い放った。
「僕は皆とは違う、父さんと母さんに愛されてるんだ!」
「……なにそれ」
エリーの冷ややかな目が、オルテのわななく背中を見つめる。
「父さんが言ったんだ。働いてお金を稼いで、必ず買い戻してくれるって……! 僕はそれを信じてるから、ミカを疑うことはできないし、この孤児院を出ることもできない!」
「本当に馬鹿……今更そんな言葉を信じるの? アンタだって薄々気付いてるでしょ、そんなのは嘘だって」
「そ、そんなはずは――」
「オルテ、アンタは親に売られたの! 父さんと母さんはもう、アンタのことなんか忘れて今頃どこかで暮らしているわ……ここで待ってても、誰も迎えになんか来ないのよ!」
エリーがまくしたてると、オルテは何も言えず、黙って立ち尽くすしかなかった。その心境は興奮していたエリーでさえも察することができる。
言い過ぎてしまったのだ。
現実を突きつけられたことによる絶望と、何も言い返せない悔しさから、オルテはいたたまれずに部屋を飛び出してしまう。後ろの方でエリーの声が聞こえた気がしたが、それでも決して振り返りはしなかった。
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