第2話 秘密の花園
「アンタ、新入りのオルテよね」
とある日の午後。オルテが積み終わった花を籠に入れようとすると、一人の少女が話しかけてきた。ロングの金髪が花の香りと共に風でなびいて麗しく、その目つきは口調に似てやや鋭い。
「誰、君……」
しみついた無愛想な仕草はなかなか抜けず、オルテは伏し目がちに少女を見つめる。
「なによ、睨みつけないでよ……アンタが鈍臭いから手伝ってあげようと思ったの」
少女は頬を少し膨らませて、言い訳がましく呟いた。
見れば、彼女の背負う籠にはオルテのそれよりもいっぱいの花が積まれている。隣の花畑は根掘りの作業も済んでおり、とっくに仕事を終えていたようだ。
「私はエリー。一応同い年だけど、ここじゃ私のほうが一年センパイだから!」
そう言って、エリーは空の籠を背負いながら少年の花摘みを手伝った。
作業をしながら、二人は時折世間話を交えた。実はミカは料理下手だということ、勉強が難しいこと、遊び相手が居なくて退屈していたこと。オルテは同年代のエリーに緊張していたのか、それ以上の会話の内容は覚えていなかった。
日が変わり、昼前の授業の時間。マザー・ミカが教壇に立って黒板にチョークを走らせながら、子供たちに化学を教えていた。
その知識が何のために使われるのかはあまり理解できなかったが、ここ数日のミカの教え方を思えば、今それを理解できなくてもオルテに不安はなかった。彼女は必要なことを必要な時に教えるという人で、遠回りはするが無駄な寄り道はしない。教える内容についても、全て「社会に出た時に必ず役に立つことだから!」と胸を叩いて言っていたので、きっとその通りなのだろう。初めて会った時から今に至るまで、オルテの彼女に対する信頼は揺るぎないものだった。
「オルテ、ねえ、オルテ」
背後から聞こえる囁き声。振り向くと、一つ後ろの席に座っていたエリーがこちらを睨んでいた。
「振り向かないで。ミカにバレちゃうでしょ」
呼んだのはそっちなのに。オルテはもの言いたげに向き直りながらも、耳だけはエリーの声に集中させる。
「この後の仕事の時間に、手伝ってほしいことがあるの。協力してくれるわよね」
「一体何を――」
「だから振り向かないで! いい? 後で呼ぶから、どっかに逃げたりしないでよね」
釘を指すように少年の丸まった背中を指で突いて、エリーは言った。わがままな彼女の物言いにオルテも肩をすくませるばかりだった。
「知ってる? この孤児院には『秘密の花園』があるのよ」
授業が終わり、昼飯を食べた二人は、他の子供たちよりも一足早く花畑に出ていた。孤児院から東の向こう、木々が生い茂る森を指さしてエリーは言う。
その先はマザー以外の立ち入りが禁止されており、先へ進んでもフェンスがあるのみだ。少女はそこに行ってみたいのだという。
ここへ来てから早一か月、未だ誰とも馴染めずにいたオルテにとって、少女の突然の提案には戸惑いを隠せない。
「い、いいの。これって怒られるでしょ……」
「なによ、十四にもなってサボりが怖いの? 皆が真面目に仕事をしている中、一人別の場所で過ごすお昼は最高なのよ。まるで、私だけが違う世界に居るみたいで――」
ふんふん、と鼻で陽気なリズムを鳴らして、エリーはオルテの手を引く。どうやら。彼女はサボりの常習犯のようだ。
誰にも見つからないよう一足早く花畑に出て、東の森に向かう二人。誰にも見られぬよう、こそこそと行動しなければならないその時間は、言いようもない連帯感と、甘美な背徳感に満ちていた。はじめは怖気づいていたオルテも、一番大きな花畑を抜けた頃にはすっかりその気になっていた。
色鮮やかな花畑を通り抜けると、暗幕のような背の高い木々に差し掛かった。太陽の光を遮るように、頭上では緑が生い茂っている。先ほどまで漂っていた花の香りは消え去り、漂うのは土の匂いと獣の気配だけだ。さっきまで手を引いて少年を先導していたエリーだったが、そこからは横並びで進むことに拘りはじめ、しまいには徐々にオルテの背中に隠れるようになった。
「ねえ、僕どっちに進めばいいか分からないんだけど」
「い、良いでしょ別に! 私が背中を押してあげるから、アンタが先に進んでよ……」
曰く、この先に『秘密の花園』があるという。しかし、そのためには道中に待ち受けるこの黒い森を通らなければならず、きっとエリーにはそれが恐ろしかったのだろう。だから自分をこのサボタージュに誘ったのだと、オルテは考えた。
エリーは少年の背中にぴたりとついて離れず、印象に似合わない怯えようだ。オルテもその体温に胸の鼓動が速まるのを抑えながら、ぎこちなく歩みを進めた。
「待って!」
ふとその時、エリーがある場所を指さした。それは草木が交差する道なき道の先――わずかに見える鮮やかな黄緑と空の色だった。まさか、と期待が湧いてくる。それが見えた途端、二人は自然と足早になって先を進んだ。そして――
森を抜けた先で二人を待ち構えていたのは、花園というよりも草原と言うのが正しいほど、一面を覆わんとする緑の原だった。孤児院の花園とはまた別の穏やかさがあり、人による手が施されていない、ありのままの姿と言える。
「すごい、すごいすごい! 孤児院の外れにこんな場所があるなんて!」
風に合わせて波打つ野花。鼻腔を刺激するのは花の香りではなく乾いた緑の匂い。純然たる自然は、色とりどりの花園よりもオルテの心を一層動かした。
興奮のあまり二人はとにかく走り回って、その野原がどこまで続くのか確かめた。どこまでも緑、緑と続きそうだったが、しかし小高い丘を越えたところで、その先に一帯を巡るフェンスの姿を認める。それはその先への侵入を禁ずるというよりも、自分たちを取り囲むようにして存在していた。
「なによ、これ」
「分からない……」
オルテは辺りを見渡す。すると、丘に隠れるようにして建った、小さな小屋を見つけた。
小屋は随分と風化して草花が覆いかぶさっており、さながらカモフラージュの役割を果たしている。近付いてみると、それが小屋と言うほど大きくはなく、小さな物置に扉を貼り付けただけのようにも見えた。しかし――
「これ……風?」
すぐそばまで近付き、ドアノブに手をかけたことでオルテはようやく気付く。扉の隙間から生温い風が吹いているのだ。それはこの小屋がただの建物ではなく、中に相応の空間が続いていることを意味する。
「ちょっと、まさか入るつもり……?」
制止するエリーの表情はいつもの強気なそれではなく、怯えを混じらせていた。しかしオルテは構わず、
「大丈夫だよ。それに、楽しそうじゃないか」
そう言って、輝いた目でドアノブを捻った。
そこは薄暗がりの地下へと続く階段であり、その先は全くの暗闇で何も見えない。ただ生温い空気と共に、何かが焼けたような匂いがする。僅かばかりの情報が、二人の想像力を掻き立てた。一体、この先に何があるのだろうか?
「君も来る、エリー?」
オルテは一度振り返って確認する。立場はすっかり逆転し、今度は少女が誘われる側だ。エリーは少し躊躇うが、しかしいつもの強気な表情に戻って、少年の手を取った。
ゴゴゴ、ゴゴゴ。
地鳴りのように壮大な音が、地下深くから規則的に響いている。階段を下るほどに空気が徐々に重たく、焼け焦げた匂いも強くなっていく。孤児院からよほど離れた場所にあり、この階段も見るからに人が立ち入った形跡がない。それなのに奥の方では何かの轟音が、さながら機械的なリズムで聞こえてくるのだ。暗闇の中、明かりも何も持ち合わせていなかった二人は、壁に手を当てて慎重に段差を降りる。すると、その先でうすらぼんやりとしたオレンジの明かりを見た。
「明かりだわ。この先に部屋があるのよ」
またもオルテの背中にぴたりとついていたエリーは、落ち着き払って囁いた。耳元をこそばゆく思いながらも、オルテは少しの覚悟を持って、前へ進む。
すると――
「焼却炉……?」
明かりの先で二人が見たのは、巨大な炉と、それを中心に広がる巨大な機械だった。さながらそこは地下工場と言った様相で、中央の炉では眩い光の中で何かがめらめらと燃えている。目を凝らしてその何かを捉えようとしたが、漂う灰と炎の輝きがそれを許さなかった。
先程から聞こえる、あの唸るような音は、この周辺から発生しているのだろうか。沁みる眼球を擦って、オルテは辺りを調べてみる。
「これって、花かしら」
エリーが床に落ちたものを拾い上げる。それは孤児院で管理し、育てている花の一種だ。花弁のひとひらだけがそこに残っていたようだった。
「なんでこんな所にあるんだろう……」
「私たちが育てた花を焼いてるなんてこと、ないでしょうね」
まさか、とオルテは笑って返したかったが、その場の空気に飲まれてか、すぐに返事は出来なかった。
少しの間、二人は炉の中で燃え続ける何かを黙って見つめていた。時折目を擦り、炉の熱気に額から汗を流しながら、奇妙な時間を過ごした。
そしてエリーが「もう少しで出ないと」と思い出したように言いだすと、来た道の階段を慎重に、しかし出来るだけ急いで駆けあがるのだった。
途中、少し日の傾きかけた昼下がりの草原で、オルテは言う。
「ねえ、時々でいいからさ。また一緒に来ようよ」
少年は草原に吹く風を、海原を征く帆船のように一身で受ける。ふわりと覗く彼の臍を見たエリーは、その白い頬を桃色に染めていた。
「ここ、すごく気に入ったんだ」
オルテは無邪気に笑って言った。地下工場のことには触れず、気にせず、ただ目の前の草原だけを称えた。エリーはこのサボタージュを一度限りのものと思っていたが、しかし彼の純心を前にして、その決意は崩れてしまう。
「良いわよ。私たち……これで共犯者だからね」
互いの小指を絡めて、誓いを立てる。無人の野原は二人だけの『秘密の花園』になった。
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