10月17日(水)(22日目)

「推し」という言葉がある。人生における応援対象というクソほど重い意味を孕んだり、はたまた気軽に今ハマってるものを表現する意味合いで使われたり、人生に潤いを与えるという名目で正気を失わせる恐ろしい言葉である。重度のアイドルオタクがこの言葉を使うと誰を狂信しているかという意味になるので、その人物に触れてはいけない。初対面の人と野球と政治の話をしてはいけないのと同じ。宗教の話になるからだ。


「推し」がいる人は皆口々に言う。気付いたら推していたと。


 さて俺にはこの「推し」というものがいない。


「推し」の対象は実在しなくても、人ですらなくてもいいらしい。ゲームの登場人物だったり、はたまた建築物だったりする場合もある。伝え聞いた話では会社推しとかいう正気を疑う推しもあるらしい。そんななんでもありらしい「推し」が俺にはいない。誰かを、何かを、凄いと思うことはある。だがそれを応援したいだと愛しいなどと思ったことがないのだ。


 テレビはニュースしか見ないから昨今の芸能人には詳しくない。ネットは流行り物に目を通す程度。ゲームや本は同世代にだけ通じる教養として嗜んでいるぐらいでハマったことはない。最近じゃあ娯楽の多様化が進み、同世代ですらまともに話が通じないことがもっぱらである。特に映画なんてものは倍速視聴が当たり前になった世の中では二時間もかけて見るのがかったるいと言われる始末。


 この日記で散々擦り倒しているありソクラテスも推しかと言われると否である。アレは……そう、丁度いい比較対象がソクラテスだっただけで推しではない。かといってついでのように擦り倒しているクサンティッペが推しと問われれば、さらに否。


 俺の人生において誰か、何かを強く思った相手という意味合いであれば一人だけ思いつく相手がいた。


 義妹である。


 決して愛しいとか恋しいとかではない。憎悪からくる思考の専有であった。執着ともいっていい。


 天才を超えたいと願い、努力を繰り返した。そレは大火に飛び込む羽根虫でしかなかった。無数に挑み、その度、灰になった。その輪廻の果て、羽根虫如き頭脳でしかなかった俺はようやっと悟り、大火から離れることを選んだ。なのに大火は燃え広がり、俺に迫ってくる。


 それが我が義妹であり、追いつくことを、執着することを諦めた相手であった。


 偉大な哲学者ソクラテスの推しはクサンティッペだったのだろう。口では悪妻だなんだと言いながら、クサンティッペに執着していたに違いない。推し過ぎて正気を失ったが故の推しであったに違いない。


 奇しくも正気を保ってしまった俺に推しはいない。


 ああ、いや、麗しの君にならば身を焦がしてもいい。


 そう冷静に考えられている時点で「推し」足り得ないのだろえ。


 何か生き甲斐を見つけたい。そう思った。せめて就職活動が始まる半年後までには。

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