10月9日(火)(14日目)

 空腹に耐えかねて、するべきではない約束を交わしてしまった。ひょっとこの口車に乗ってしまった。乗るしかなかった。日米修好通商条約を結んだ江戸幕府はこのような気分だったのだろうか。後の祭りに気付いて頭を抱えるしかない。


 けれど文字通り、背に腹は代えられなかった。


 今日、空腹に耐えながら講義に出た。講義を受けたところで頭にさっぱり入ってこないことは明白であったが、試験が酷く難しく、成績の低空飛行確実であったため出席点は確保しておきたかったのだ。


 腹が減り過ぎてまともに眠れず朦朧とした頭に冷水をぶっかけて目を覚まし、水道水で腹を満たし、よろけながら家を出た。徒歩五分の大学についた頃にはもうヘロヘロであった。あまりにも顔色が悪かったのだろう友人たちどころか講師までもが近寄ってきて大丈夫かと訊いてくる始末だった。


 金欠でまともに飯を食べていないと告白すると、ひょっとこがヌルっと現れてこう言った。


「あとで一つ僕の言う事を聞いてもらえたら今からでも腹いっぱいにご飯食べさせてあげますよ」


 講師も俺の顔色を見かねて「二人とも出席扱いにするから学食に行ってこい」と俺らを追い出した。学食までの道すがら真っ白に染まりつつある視界の中でひょっとこに「何をさせるつもりだ」と問う。ちゃんと発音できていたかは怪しいが。


 それでも意思疎通はできていたようで「お、ということは言う事を聞いてもらえるということで?」ととぼけてきやがった。もはや付き合い切れるほど体力はなかった。ゆえに「もう限界だ。やれることまでならやってやる」とプレパラートほどの自己保身だけでほぼ白紙合意に至った。


 学食に着いたあとはひょっとこが運んでくる各種定食やラーメン、カツ丼などをひたすら胃に運ぶ機械となった。人間火力発電所である。燃料が胃に届き、カロリーが燃え、色彩が戻る。普段は食べられないはずの量を掻き込んでいく。


 少し早い昼食を取りに来た学生どもが異様なものを見るように俺見ていく。俺とひょっとこが専有しているテーブルには空になった食器が多く並べられていたからだ。皆、ギョッとしては触れてはいけないと少し離れた席で俺らを横目に食事をとっていた。おかげで俺らの周囲だけ人が誰も座らない空間となっていたらしい。


 だが俺は目の前の飯を食らうのに必死でそんな些事を気にかけてはいられない。そのまま食い続け、ある程度腹も満たしたあたりでついに声をかけられた。


 麗しの君であった。


 なんでも学食にフードファイターが現れたと聞いて野次馬に来たら俺の姿があって声をかけたらしい。そこで改めて周囲を見てみると、俺を取り囲むように野次馬たちが集まっていた。思い思いのスタイルで俺の食事を見守っていた。単純に馬鹿騒ぎする者、腕組み物知り顔をする者、写真を撮ったりする者、様々だ。度が過ぎて、逆に見世物になってしまったようだった。


「いやはや先輩は隠れ大食いだったのですね。沢山食べる人が好きっていう子多いですよ」


 そう言われた。


 すべきではない約束を結んでしまった。ただ、目先の利益はそれなりに捨て難いのもたしかであった。

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