大野叶 その3
一人で過ごす聖夜というものが、こんなにも静かだとは思わなかった。
わたしとお兄ちゃんは必ず一緒に聖夜を過ごしてきたから、そんな当たり前のことにも気が付かなかったらしい。
焼き上がった生地の粗熱が取れたことを確認して、生地を3枚程度にスライスして生クリームを全体に薄く塗っていく。土台が隠れるまで綺麗に面を整えたら、後はデコレーションに入る。
ここだけは、お兄ちゃんが居るとできないポイントだ。
白いケーキをキャンバスにして、私は「お兄ちゃん大好き♡」と大胆に書き込む。
「……バカップルでもやんないでしょこれ」
自分でもちょっと引いた。
でも、雪乃ちゃんとのクリスマスデートのインパクトを打ち消すにはこれぐらいじゃないといけない。なんだかんだ言ってあの二人の相性は抜群なんだから。
そして、このケーキでハッキリさせよう。少なくともわたしの「好き」は兄妹の枠に収まっていないのだと示すんだ。
他の料理も大体準備できた、後はお兄ちゃんが帰ってくる頃に合わせて仕上げるだけだ。
うんと背伸びをした私の耳に、鍵が開く音が聞こえた。
「え……」
私は玄関の方に顔を向けた。
狭い一室だから、すぐに足音は目の前までやってくる。
「お母さん、なんで……?」
わたしの言葉に、今日は仕事で帰ってこない筈のお母さんが答える。
「あなた達のクリスマスの様子を一度見ておこうと思ったのよ」
お母さんの視線は、わたしの目の前にあるケーキに向けられている。
「どうやら、見に来て正解だった様ね」
お兄ちゃんへの思いをぶちまけたケーキを見ても、お母さんはあまり動揺していないようだった。
「まだ、幸太郎の事が好きなのね」
「……お兄ちゃんのことが好きで何が悪いのかわかんないよ」
お母さんは重たい空気を吐いた。
「あなたの好きは、恋愛の好きでしょう」
逃げられない。
わたしの背中に冷たいものが走った。
幼い頃の痛みが蘇る。兄への恋心を始めて否定された相手、私達の関係を変えてしまったのはお母さんだった。
いつもは離れていても、お母さんはちゃんと私達を見ている。
お母さんのことは嫌いじゃないよ。
だけど、どうして今日来るわけ?
いつもは帰っても来ない癖に、おかしいじゃん。
わたしはぎゅっと瞑った目を見開いて、お母さんを睨みつけた。
頬を汗が滑り落ちた。
どうせ壊れるのなら、派手に壊してしまえ。
「そうだよ?わたし、異性としてお兄ちゃんが好き。
でも同じだよ。それの何が悪いのかわかんないって言ってんの」
お母さんの表情が険しくなる。
「あなた、自分が何を言ってるか分かってるの……?
そんなの普通じゃないわ、異常よ」
「お母さんがわたし達に何が普通か説教できる立場かな。
今まで散々放置してきた癖に?」
「っ……これとそれとは話が別でしょう!
良い?あなたのそれは家族への愛情を拡大解釈したものに過ぎないわ。
大人になってから後悔しても遅いの。
周囲からの理解だって絶対に得られない、それがどれだけ苦しいことか分かっていないのよ!」
お母さんの言葉には、どこか実感がこもっていた。
少なくとも、世間体を気にしての言葉ではなく、本気の心配から出た言葉だという事は分かる。
だけど、私だって引くわけにはいかない。
「別に誰を好きになったっていいじゃん!」
「良いわけないでしょう!
あなた達には私と同じような思いをして欲しくないのよ!
普通に生きて、普通の幸せを掴んで欲しいの!分かって頂戴……!」
その一言で、私の心に火が付いた。
同じ思いをして欲しくない?
それは結婚生活の話だよね?
二人のお父さんがいることは、望んだことじゃなかったの?
それじゃあ、どうしてわたし達はあんなに苦しい思いをしなきゃならなかった訳?
怒りが噴出して、もう止められない。
「だったらっ」
言っちゃダメなのに。
「だったらなんでわたし達にはお父さんが居ないの!?
お兄ちゃんと腹違いの時点で全然普通じゃないよ!ずっと悩んでた!」
的外れな、だけどずっと心の奥底に隠していた疑問が噴き出した。
どうしてわたしの肌の色はお兄ちゃんと違うのか、どうしてお母さんとはわたしから一歩距離を取っているのか?
ずっと聞きたかったことなんだよ、お母さん。
「帰って来てくれないのは私がいるからなんでしょ。
だって、お兄ちゃんのお父さんの写真はあるのに、わたしのお父さんの写真は一枚も残ってないじゃん!
なんかあるんでしょ、隠さないで教えてよ!」
お母さんは……答えてくれなかった。
あぁ、そういう事ね。
答えられないようなことなんだ。
否定、してくれないんだ。
わたしの世界が崩れていく。もうここにはいられなかった。
わたしはお母さんを突き飛ばして、玄関に走る。
「待って!叶っ!」
靴を攫って、裸足で階段を下る。
アパートから出たら、靴を地面に放って足を突っ込んでまた走る。
近くを通りかかったカップルが、ギョッとしたような顔でわたしを見ていた。
わたしは、わたしを追いかけてくる何かから無我夢中で逃げ続けた。
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