第23話


 火の点いた線香と「月餅」を墓前に供え、僕とねこは手を合わせた。10秒ほどの瞑目を終えてねこの方を向くと彼女はまだ目を瞑ったまま合掌を続けていた。眉を顰めているので得もいわれぬ迫力がある。「2年間あなたの話をよく聞かされていたの」と文句を零しているのかもしれないし、これまで抱いてきた嫉妬心をぶっつけているのかもしれない。何であれこういう表情をしている時の彼女を刺激するのは得策ではないので僕は大人しく待つことにする。


 周りの墓石と較べるとナオのそれはとても綺麗だった。黒ずんでいたり苔むしていたりはしない。モチロン墓が建ってからそれほど時間が経っていないということもあるだろうが、定期的に――それも頻繁に――彼の親御さんが訪れて手入れをしているのだろう。いつ来ても、まだ活き活きとした花が添えられているので、僕はそう確信している。だから1度も彼の家族とはち合わせたことがないのは不思議といえば不思議なものだ。



 結局ねこはそれから3分ほど経過してから合掌を解いた。


「たくさん話しかけていたんだね」

「うん」彼女は肯く。「無口な人だね」

「うん」僕も肯く。「無口な奴なんだ」


 僕とねこの間を沈黙が泳ぐ。そよぐ風が線香の煙を僕らの鼻腔に運ぶ。


「でも、君の友だちってのはわかる気がするよ」

「そう?」

「うん。雰囲気がよく似ている」

「へぇ、どういうところが?」

しかし彼女はそれには応えなかった。その代わりに「わたしはまだ、君のことを知りたいと思うよ」と言った。


 突然何の話だろう? 僕はモチロン面喰らうが、仕方がないから肯いた。


「でも恋だけじゃないよ」とねこは言った。僕がどのような反応を示そうと、そうやって言おうと決意していたのかもしれない。「知っていることだって、君の友だちに負けないくらいあるはずだから」

「ねぇ、もしかして怒ってる?」

「そうじゃない」と彼女は強い口調で言う。「どうしてそう申しわけなさそうな顔をするの?」拳を握り、「わたし、今日嬉しかったんだから」と地団駄を踏んだ。言葉とは裏腹にひどく腹を立てているみたいだった。目だっていささか潤んでいる。


「うまく言えないだけで、わたしはすごく、君のことが好きなの」


 僕は有効な返事を思いつけない。だから「けれど、僕はいつだって臆病風に吹かれてるんだ」とためしに言ってみる。

「どうしてそうなるの? 違うでしょ。君は莫迦みたいに優しいだけだよ」

「優しい?」と僕は言った。優しい?

「自分の答をひとつに決められないのは、他人の意見を尊重するから。好き、って言葉を口にすることを躊躇うのは、他人を縛ったり先入観を与えたくないから。直接言葉にしなくたって、君がわたしをとても好きでいてくれていることくらい、わかるんだから」


 僕は肯く。彼女の言ってることは――少なくとも最後のひとことは――当たっているから。


 いろいろな種類の、いろいろなカタチの驚きが僕のなかで渋滞している。結局、何がねこをこうも昂らせているのかがわからない。突発的にスイッチが入ってしまったのかもしれないし、僕の不用意な発言が彼女の心というラクダの最後の藁の1本になったのかもしれない。それにここは墓場なのだ。会話の内容だってそぐわないし、だいいち声が大きすぎる。しかしそれを指摘できる雰囲気でもない。どうしたらいいのか皆目見当もつかない。困ったものだ。


「一昨日送った曲のことなんだけど」

「うん?」僕は相槌を打つ。

「あれは、わたしと君だけの曲じゃないの」

「どういうこと?」と僕。どういうことだろう?


 ねこは僕の問いかけには応えない。「じゃあ、この話、覚えてる? わたしが『相違点よりも共通点を見つけなくちゃいけない』って言った話」

「え?」

「覚えてないの? ホラー映画をいっしょに観たじゃない」

「いや、モチロン覚えてる」と僕は言う。覚えてるも何も、ついさっき思い出していたくらいだ。というか、ねこはそのDVDをほとんど観ていなかったはずだけど。「その日、ねこは『恋とは知識欲』と言っていた。よく覚えているよ」

「あれと同じなのよ。わたしが今回作った曲は、モチロンわたしのオリジナルの発想だし、わたしの君に対する気持ちでもあるのだけど、わたしと君だけが登場人物になり得るわけじゃないの」そう言ってねこはナオの墓に視線を向ける。「ここに眠ってる君の友だちも、今は行方知らずの友だちも、あの曲には代入可能で、あの詞の『ボク』は君であるかもしれないし、君の友だちのどちらかかもしれない。あるいはその逆でもいいの。それでもいい、そうなり得るんだ、って書いてる時に気づいたの」

「ねぇ、ひょっとして君が僕の友人に対してもヤキモチを妬くのはそういうことだったの? まさか、僕と彼らとの関係に『恋』だなんて概念は――」

「どうしてない、だなんて言い切れるのよ?」彼女は真剣にそう言っているみたいだった。「少なくとも『愛』に関しては男女関係なく、その関係性を問題とせずに生まれ得るモノじゃないの、ねぇ、そうでしょう?」


 僕は肯く。異論はない。


「愛は誰にでも適応できて、恋はできないなんてわたしは思わない。友だちにだって、家族にだって、ヤキモチ妬いたり束縛しようとしたり、世のなかにはたくさんあるんだもの。異性の意中の相手以外に対する知識欲だって、恋と呼んで何の差支えがあるのよ? でもね――」ねこは一旦そこで言葉を切り、口を尖らせた。「それでも、いいの。妬いてしまうけど、いいの。他の女の子に対する性的な想いでなかったら許せるの。……ううん、きっと、そういうのがあったとしても、わたしはきっと許してしまうんだと思う。根には持つかもしれないし、猜疑心にも駆られるかもしれない。それにすごく冷たく接したりもしてしまうのかもしれない。それでも、許しちゃうんだと思うの」

「僕は浮気なんかしないよ」

「そんなの、わからないじゃない」とねこは言った。その通りだった。未来のことは誰にもわからない。ナオの死が、その証左だ。「でも、少なくとも今のわたしは許容するの。愛しているんだもの。君がわたしの嫉妬深いところを許してくれるのだって、それといっしょでしょう?」


「む……」僕は思わず口を噤む。どう応えたものか、わからない。僕が彼女を愛していない、という意味ではない。この想いを愛と呼んでいいのか、その確信が持てないのだ。それに、許している、というよりは諦めている、という方がしっくりくる。


「どうしてわからないのよ!」ねこは僕の胸をどん、と突いた。耳ではなく、直接心に届きなさい、とでも言わんばかりに。


「君のわたしに対してのあたたかさが愛じゃないんなら、他の何が愛なのよ。君の友だちに対しての気持ちも、思い出もそう、それが愛というモノのすべてではないかもしれない。けれど、それはたしかに愛だよ。どこからどう見ても愛のひとつだよ。君にはそれがあたり前すぎて、『愛』なんていう大袈裟な名前に馴染んでいないだけでしょう。誰が愛してもくれない人のことを愛せるの? わたしはそんなに莫迦じゃないわよ。君がわかっていないんなら、わたしが何度でも言ってやるわよ。君の生き方は、人への愛に溢れてる。そしてそれは、きちんと届いているんだよ」


 なんてこと、だろう。


 ほとんど泣き出してしまいそうなねこを見て、僕はそう思う。彼女のあまりの迫力に、気が利かない路上のパントマイム・ダンサーみたく両手を前に差し出して、僕はそう思った。


 僕は今日、ナオと久しぶりに愛の話をしようと思い、やって来た。その内容はモチロンねこが新曲というカタチで示してくれた愛のひとつの答についてだ。「これが僕の恋人で、彼女がこんな答を出してくれたんだけど」とナオに聞かせてやりたかったのだ。しかし、なんてことだろう。話はそれに留まらなかった。ねこは詞のなかにこう綴った。


「生き方そのモノが愛のカタチ」

と。そしてねこは言った。それは彼女自身の生き方であり、僕の生き方であり、トモやナオの生き方でもあるのだ、と。まったく、なんてことだろうか。「愛」とはなんぞや? そう探し、求め、彷徨い、語らい合ったその日々こそが正に恋の作用であり、愛そのモノの1部を成していただなんて。僕とねこの会話――ほとんどは彼女の一方的な主張であるけれど――を聞いたナオはどんなふうに思っているだろうか? 「僕たちの、あの日々すら、彼女に言わせれば愛らしいぜ」――そうナオに言ってみたら、彼はなんと応えるだろう?


 でも、と僕は思う。


 そんなの、考えるまでもないじゃないか、と。

「いいね、僕は好きだな」と言うに決まってる。


 僕がそんなことを考えていると、ねこは「なのに」と続けた。

「なのに?」

「どうして君は、その愛を自分に向けてあげないのよ。自分の気持ちを、大切にしてあげられないのよ」


 そう言って、彼女は今度こそ真剣に泣きはじめた。その泣き声は世界中のどんなシンガーの唄声よりも強く、心の痛みを伝えていた。僕はどうしようもなく、それを黙して受け止めた。彼女が泣き声をあげなくなった頃、僕はゆっくりと肩を抱いた。たしかなぬくもりのある、華奢なねこの肩を。

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