第15話


 偉そうに思いつきをトモに伝え、あまつさえ感謝さえ受け取った僕はあの頃より9年ぶん歳を取った。


 ――9年間。


 決して短くはない時間だ。振り返ってみればあっという間にも思えるが、「9年」という言葉が持つ重みは軽いモノではない。だって、ひとりの人間が義務教育を丸ごと受けられるだけの時間なのだから。

しかし少年少女たちの時間の濃密さと違って僕のそれは「すかすか」も同然だった。モチロンいくつかの幸福――たとえば、ねことの出逢い――もいくつかの哀しみもあった。思い出せるようなイベントが何もなかったわけでも、それらを失念してしまったわけでもない。とはいえそれらが僕を成長させたのか、あるいは僕がそれらから何かを学び取って糧にできたのか、と考えると自信を持って肯くことはできない。僕のこの9年間が「すかすか」だというのは結局そういうことだ。偉そうなことを口にした割に僕は自分なりの愛の答とやらを見つけることができていない。それどころか2年もつき合っている恋人にただひとこと、「愛らしい」と伝えることすらできていないのだ。


 まだ僕は20代とはいえ、肉体的、精神的に損なわれたモノだってある。僕はあらゆるモノゴトとの接点を見出せないまま、老いていかなくてはならないのだろうか? アイデンティティというのはわかりやすい突出した差異のことではなく、あらゆるありふれたモノゴトとの接点のことなのだ。その点を繋いで浮かび上がってきた固有の歴史が個々人毎の骨格であり証明となり得る。そしてユングに依れば、自我の同一性とはおおかた12歳から20歳の間に形成されるモノらしい。僕はその時を既に通り過ぎてしまっている。いつの日か僕が荼毘に付された時、そこに残るモノは一切のカタチを成していないんじゃないだろうか。


「ム……」ねこが身体をびくっとさせて僕の肩から頭を離した。何かを捜しているみたいに首を左右に振っている。「うり坊は……?」どうやら寝惚けているみたいだ。

「起きた?」

「寝てないもん……」


 車窓の景色のほとんどが畦道になっている。大きな製麺工場も見えてきた。あともうひとつ駅をやり過ごしたら降りる準備をしなくてはならない。ちょうどいいタイミングでねこは起きてくれた。


「もうそろそろだよ」と僕は言った。

「ん……」


 目を擦りながら肯くねこを、僕はやはり愛らしいと思う。そして僕はふと思う。僕がそのひとことを、伝えられないのはこわいからだと。僕が思う以上に、僕の言葉も僕自身のように「すかすか」だったら――そんな軽い、中身のない言葉が彼女の手に渡ってしまうのがたまらなくこわいのだ。そのあまりの軽々しさに、彼女は遂に愛想を尽かして僕の言葉や存在すらも放り棄ててしまうかもしれない。それを僕は心からおそれている。僕の空洞のなかには、いつも臆病風が吹いているのだ。

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