第14話
「薄暮の空が描けない」
件のカラオケパーティーの後、僕とふたりになったトモはそう言った。僕たち3人のうち、ナオだけ帰る方向が逆で、僕とトモはよく自転車で並走して帰路を辿っていたのだ。トモとナオ、どちらの方がより親密だったか? と問われれば「較べられるモノではない」と応えるけれど、どちらの方がいっしょに過ごす時間が長かったか? と訊かれれば「それはトモだ」と応えることになる。
「ハクボって? 何それ」当時の僕は薄暮、という言葉を知らなかった。
「俺が1番好きな時間なんだ」
「そう?」
「太陽が地平線の下に隠れちまって、けれど、まだ夜にはなりきっていない時間帯。あの赤紫と群青がグラデーションになってるのが好きなんだよ。でも、うまく描けない」
たしかにトモが描く絵で青空や夕焼けの風景画は見たことがあるけれど、その時間を描いたモノは見たことがなかった。気の利いた返事が思い浮かばなかったので、「なんで好きなの」と僕は言った。
「なんでだろうな、あの短い時間しか存在しない、儚さが何故かたまらないんだよ」
「それなら、何日かに分けて描けばいいのに 」と僕は思いつきを口にした。
「無理だよ、薄暮の空は1秒1秒、色が変わるんだ。本当に1秒ごとに変わっちまうんだぜ。それに1日とて同じカタチの雲もない。雲のカタチが変われば光の進み方も変わってくる。光の進み方が変わればモチロン色も変わる。だからとてもじゃないけど、日を分けて描くなんてできないんだ」
それから僕たちは数分間、言葉を交わすことなく自転車のペダルを漕いだ。自転車が出す音はどこの放送局にも当てはまらない周波数に設定してる時のラジオノイズのように不穏だった。僕たちが暮らす町はけっこうな田舎で、帰路の4割ほどは土手道だった。土手の傾斜には菜の花が咲き乱れ、春のあたたかな風が青い生命の生臭さを辺りに運んでいた。ぽつぽつとちいさくてかわいらしい花も咲いていた。その花の名前を僕は今でも知らない。日は沈みかけ、空はいささか赤みを帯びていた。僕がもしも上手に絵を描けたなら、今この瞬間を切り取るのにな、と思った。
「なんかさ」とトモが切り出してきたのは僕たちが別れる地点まであと数100メートルというところだった。どうしても、その言葉は今日のうちに吐き出しておきたいという強い意思が感じられた。きっと薄暮の空と同じように、時間が経ってしまえば彼のなかの言葉はその色を変えてしまっていたのだろう。彼は「薄暮の空を描くことは、俺たちがいつも話しているようなモノと同じなのかもな」と続けた。
「どういうこと?」と僕は返した。
「うん。愛が何たるかを掴もうとしてることと、きっと同じことだよ。もしかしたらうまくいきっこなくて、うまくいったと思ったらぜんぜん見当違いのモノを掴んでる、なんてこともあるいはあるかもしれない」、彼はちいさく溜め息を吐き、「八方塞がりですな」とおどけた口調で言った。
季節に似合わない、淀みのある沈黙が降りる。
このまま別れるのは違う。僕はそう感じて、やはり浅はかな思いつきを口にした。
「何かの本で読んだんだけど、恐竜が生きていた時代は空が赤かった可能性があるんだってさ」
「へぇ、どうして?」
「その辺の細かいことはよく覚えていないな。たしか空気中の酸素とか窒素とかの含有割合が現在と違うから、みたいな理由だった気がするけど」
「ふーむ」
「つまりはね」と僕は続けた。「時代が変わっちまえば色だって変わっちまう空なんだから、そんなに囚われなくてもいいんじゃないかな。愛にしたってそうさ。古今東西、万人を納得させられる愛の答なんてありゃしないんだ。たとえ僕たちがハーバード大学の首席生だとしても無理な話だ、そうだろ? それなら自分だけの色、自分だけの答をでっちあげてしまえばいいんじゃないかな。そうしたらそれぞれの答を持ち寄って『それはいいね』とか『それは違うよ』とか言い合えばいい。それなら答が出てしまった後だって、いくらでも僕らは議論を交わしていられる。答がひとつ出たなら、またそこから別の問いを産み、また新しい答を探す旅をはじめたらいいんだよ」
「ロシア人形のマトリョシカみたいだ」とトモは言った。
僕は笑って肯いた。
「ありがとう」トモは真剣にそう言った。「おまえのおかげで、なんだか描けそうな気がしてきたよ」
それからトモは2週間に3枚のペースで風景画を描き出していった。僕の言葉のせいなのかはわからないが、彼の風景画はほとんど抽象画の様相を呈していた。というのも彼は青空を桃色で描き、曇り空を黄色に塗り、夕焼けを緑色に染めあげるようになったのだ。ちなみに薄暮の空は虹色――としか言いようのない鮮やかなグラデーションになっていた。といっても1枚1枚を見れば微かに色のバランスは異なっており、1作品として同じ色の空を彼は描かなかったから念が入っている。そしてそんな配色ながらも、きちんと何が描かれているのかは判別できたから、やはりトモは絵画の才能にかなり恵まれていたのだろう。そしてやはり、トモの絵を見たナオは「僕は好きだな」と口を綻ばせていた。
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