第9話


 僕のふたりの友人、トモとナオについて記す。


 まずトモについてであるが、彼が高校時代半年にひとりの頻度で恋人を乗り換えていたことは先に述べた通りである。彼は我ら3人のなかでもっとも弁が立ち、成績がよく、スポーツが得意であった。その上、鉛筆画が達者でスケッチを描かせれば県から表彰を賜わるような才能の持ち主である。「神は二物を与えず」という我ら凡百が縋りつきたくなる偉大な言葉を覆す証左のひとりであったといえよう。しかし共にカラオケボックスに赴きマイクを握らせてみれば「不協和音製造機」の名を恣にする実に愛すべき男であった。なるほど、神は二物を与えはしても万物を与えるわけではないのだなとしみじみ思えたし、恋人もいてあらゆる才に恵まれていても、それを鼻にかけたり誰かと較べたりすることのない気持ちのいい男である。理不尽な悔しさは拭えないが、彼が異性から人気を博すのも納得はできた。


 次いでナオについてであるが、「誰かと較べたりすることのない」という点においてはトモでさえ及びもしない人格者であった。トモの場合は他者への慮りの結果として後天的に身につけた印象があったのに対し、ナオのそれはそもそも何かと何かを較べるという考え方を先天的に持ち合わせていないように見えたのだ。あらゆる偏見や確執から解放され、「諸行無常、諸法無我」を地でいくタイプの男である。いつも微笑みを絶やさず、寡黙で時折感銘を受ける言葉や事象に出逢うと「僕は好きだな」と呟く。そんな温厚の権化ともいうべきナオであるが意外な一面もある。それはパンク・ロックをこよなく愛しているという点だ。トモとは対照的に唄がうまく、1度マイクを渡してみれば「いつものナオはどこに行ったの?」と言いたくなるようなハスキー且つパワフルな歌唱を見せてくれる。BPMが140を下回る歌を歌と思っていないようなフシが(たぶん)あり、その豹変ぶりは筆舌に尽くし難い。尽くし難いので敢えて書かない。その変貌の様相は読者の想像にお任せしたいと思う。たぶん、その5倍は上をいくと思うけれど。


 ともあれ、これが僕の数少ない友人たちである。学生時代から今まで、たくさんの人と出逢い、たくさんの人と遊んだり酒を飲んだりしたけれど、友人と呼べる存在はこのふたりしかいない。僕が友だち、という言葉を用いる時、それはトモとナオのふたりを意味する。


 ちなみに記しておくと、ねこが言っていた「あの子たち」というのも彼らのことである。彼らは僕と同級生だからモチロンねこより2学年上なのだけれど、僕が話す彼らの話はいつも高校時代のことだから、ねこのなかで「彼らが自分より歳上」という感覚がないのだろう。責任を感じるようなことはないけれど、僕のせいと言われれば、まぁその通りである。

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