第7話


 僕の恋人、ねこについて記す。

 彼女はコンピュータ・プログラム関連の専門学校を卒業した後、現在はプロ・ミュージシャンを志しフリーターをしている。高校時代は軽音楽部でヴォーカルを務めていたらしく、あのステージ上での爽快感が忘れられずに一念発起したのだ。その決意を告白した時、彼女の母親は「学費を返せ」と激怒したらしいが、「出世払いで返す」とねこが言うと、「10年待ってやる、ただし倍にして返せ」と父親が間に入り、現在は一切蟠りはないらしい。なかなかユニークな家族なのだ。週に4回、6時間ばかりチェーン・カフェのアルバイトをし、週に2回は駅前で路上ライブを行う。週に1回は僕とデートをし、月に2回はライブハウスでの演奏を行っている。月に3万円を家賃と食費として実家に入れ、コツコツと増やしていったSNSのフォロワーは4千人を超えている。恋人という色眼鏡を通して視ているせいかもしれないけれど、彼女は本当に頑張っていると思う。肉体的にも精神的にも相当にタフなのだ。


 僕とねこのはじめての出逢いは2年半前、新宿にある楽器店の狭いスタジオのなかだった。その日その楽器店では、常連客が出演できるミニ・スタジオライブを開催していた。当時の職場の先輩が趣味でバンドを組んでおり、「よかったら観に来いよ、無料だし」と言うので僕は足を運んだのだ。先輩のバンドは特に楽器店のスタッフたちと仲がよかったらしく、出番は7組中の大トリだった。そしてそのイベントの1番手として、ねこが弾き語りで出演していた(アーティスト名はモチロン「ねこ」だ。先輩のバンドの名前は失念してしまった)。弾き語りで出演しているのは彼女ひとりだけだった。


 ねこがステージに立つと、観客のなか――そのほとんどは後に控えるバンドマンたちだ――から「かわいい」とか「ちっちゃい」とかいう単語が聞こえてきた。たしかにねこはかわいらしかったし、肩にかけたTakamineのエレキ・アコースティック・ギターは相対的サイズ感のせいで僕が知っているそれよりも大きく見えた。狭いスタジオということもあり、その声はおそらく彼女にも届いていただろうが、彼女は口を一文字に結んでポーカーフェイスを貫いていた。集中しているのがよくわかる。進行役のスタッフが「では、ライブをはじめます。1番手はねこさん、お願いします」と言った。髪の毛と鼻の下が長い、なんとなく助平そうな顔をした中年の男だった。ねこはちいさく「はい」と応えた。一瞬の沈黙。スタジオ内には仄あたたかい、歳の離れた妹を見守るような雰囲気に充たされていた。その空気を感じ取った僕は、もしかすると彼女はそこまでこの店には通っていないんじゃないか、と思った。演奏は突然はじまった。MCもなく、曲名を伝えることもなく、ギターの音とねこの唄声とが同時に、唐突に発せられた。その10秒ばかり後には「おぉ」とか「うまいね」とか言う声があがっていた。彼女はたしかに歌もギターも上手だった。パワフルというのではないが、芯のある伸びやかな歌唱だった。ちいさな身体のすべてをフルに使った、感情のこもった唄声。ねこがその時唄ったのが僕の贔屓のバンドのカバーだったことも、僕が彼女に惹かれた理由のひとつかもしれない。シングルにもなっていないバラードで、本人のライブでもあまり演奏されない、ファンのなかでも「好きな曲」としてあげられることの少ない――だけど、僕はとても好きな――曲だったのだ。彼女が1曲目の演奏を終えると熱のこもった拍手がとびかった。そこには既に見守るような雰囲気はなく、紛れもない敬意やライバル視といった熱に変わっていた。その拍手が落ち着いたのを見計らって、ねこは「こんばんは」と言い、その後のMCを真剣な顔でこう続けた。「吾輩はねこである」。スタジオ内にいた人たちはみな思わず吹き出した。こうして僕はアーティスト「ねこ」のファンになった。


 そしてその帰り、楽器店からの最寄り駅――その切符売り場で僕らは偶然顔を合わせた。お互いライブが終わったあとは誰かと交流することもなく帰路についたのだ。僕は精一杯の勇気を振り絞って話しかけ、贔屓のバンドの話で意気投合し、いろいろあって半年後にはめでたく交際に発展することになる。その「いろいろ」に関しては恥ずかしいし、もったいないので敢えて書かないでおく。


 そんな整った容姿と聴いている人の心をストレスから解放してくれるような唄声を併せ持つ僕の恋人だけれど、アーティストとしての感性はいささか独創的――最大限彼女の尊厳を守る言い方をすれば、の話だ――に過ぎる。というのも彼女が持つ声やルックスの外的要素と、彼女が表現したがる世界観がどうにも合っていないのだ。もっと直截な言葉を使うとすれば、いくつかの例外を別にして彼女の作詞センスはいささかと思わざるを得ない。たとえば彼女が書いた詞にはこんなモノがあった。


『虚しくならないか?』

 飛べない鳥は数多いるけれど

 泳げない魚って そういえば

 聞いたことがないよなぁ

 生き残れる例外と そうでない例外の

 境界線をボクに視せてくれよ

「持続可能な世界を子どもたちへ」と

 心から言い続けることは持続可能か?

 ボクにはとても無理だ

 お祭り騒ぎで悦に入る者たちが

 囃し立てられるような世界は

 さっさと滅んじまえばいいんだ


 モノ凄く大きな視点で語られているような、しかし地べたの視点でのぼやきのような。何か深い風刺のような、しかし単なる愚痴のような。しかもねこはこれをアコースティック・ギターをぽろぽろ鳴らしてしっとりとバラードで唄いあげる。僕は唄ったり踊ったり絵を描いたり映画を撮ったりといったことのできない――つまり芸術をまったく解せない人種だからかもしれないけれど、彼女が「新しい曲、どう?」と言ってこの『虚しくならないか?』を聴かせてきた時には「なんか……凄いね」と曖昧に応えることしかできなかった。見る人が見れば「これは……!」となるのかもしれないし、僕の感性が乏しすぎるのかもしれない――実際4千人もフォロワーがいるわけだし――けれど、あながちそうとは言いきれないエビデンスもあったりする。


 ねこは本格的に音楽に取り組みはじめてから。それも、僕と交際をはじめる以前のことだから、1年半ばかりの間に2回解散をしているということだ。その理由を訊ねると彼女は「音楽性の違いってやつ」と素っ気なく応えた。うむ、なるほど。かつてのバンドメンバーも彼女のいろいろな意味で先を行きすぎた作詞センスに言葉通りついていけなくなったのだろう。そんなわけでねこはひとりで活動するようになったし、ちなみに記しておくと『虚しくならないか?』はライブハウスで演奏したものの評判は芳しくなかったらしい。以上の事柄は僕の感性が乏しいだけではない、という証左にはなるまいか。モチロン伝えることはしないけれど、今のままのねこの世界観を貫き通すのであれば彼女はアーティストとして大成はしないんじゃないか、と僕は予感している。


 でも、とも僕は思う。


 そんな僕の予感など、裏切って欲しい、と。いつか時代が彼女に追いつき、プロデビューを果たし、彼女を見限ったかつてのバンドメンバーに目にモノ見せてやれ、と強く思っている。「信じられないよ、すまない、僕がおかしかったんだ」――そう言ってねこに頭を下げる、そんな未来が来てくれたらいい。


 ちなみに先に述べた、2013年の10月、とある放課後のエピソードをねこに聞かせたらこんな応えが返ってきた。印象深いやり取りだったので、ここに記しておく。


「たしかめずにいられないのは失くすかもしれない、と不安だからでしょ」とねこは言った。「自分に自信がないのか、相手に問題があるのかはわからないけれど、自分か、あるいは相手を信じられないから何度も確認するの。『失くしてないかしら』、『どこにも行ってないよね』って何度も何度も握り締めた手を開いたり閉じたりしないと不安で仕方ないのよ」

「受験票みたいだな」

「そう、気づいたらしわくちゃになってるの」

「でも、その女の子が確認していたモノは本当に愛だったと思う?」と僕は言った。

少しだけ考える素振りを見せ、「さぁ、どうだろう」とねこは応えた。「たぶん、違うっぽいよね」

「かもね」


 沈黙。


「ところで、ねこは言わないよね」

「何を?」

「『わたしの愛は伝わってる?』とか」

「……まぁね」

「なんで?」

「うるさい」とねこは俯いて膝の上に握り拳を置いた。


 これがねこ。僕の恋人だ。

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