第12話 ドレスとおまじない 6
芸術発表当日の朝。
朝、起きた時から、心臓はドクドクといつもより大きな音を立てている。
朝食も、コップ一杯の牛乳を飲むのがやっとだった。
ママの声も全然耳に届かないし、パジャマのボタンを外す手は震えて、なかなか着替えられなかった。それでも朝の用意を何とか終えると、必死に願いながら緑の袋に入っている残りの飴を食べた。そして、何度も握りしめて擦り切れ初めている小さな紙きれをスカートのポケットに入れる。
震える呼吸を逃がすように大きく息を吐き出して、読みかけの本に挟んである栞にそっと触れて、呟いた。
「後、もう少し。だから、頑張る」
心臓の音が体中に響いていて、自分の声はよく聞こえなかった。
自分の身体が自分の物じゃないような感覚を覚えながら、フワフワする足で家を出た。
「ごめんなさい」
聞き取れないような、カサカサの声。
囁くよりも小さくて、耳元で聞かないと、何を言っているのか分からない。
登校して一番に黒田君を見つけて声をかけた。
「えっ。どうしたのその声?」
黒田君はランドセルを背負ったまま、驚いて私を見た。
私は声を出そうとして、大きく咳込んだ。
痛みは無いけど、カラカラで何度唾を飲み込んでも、潤わない。
私は喉を押えて、ランドセルから、ノートと鉛筆を出すと、黒田君に見えるようにノートに文字を書いた。
「声が出ない」
私が字を書くのと同時に、黒田君が読み上げる。
「嘘だろ?今日、本番だぜ」
周りの皆も何事かと、私達を取り囲むように集まりだした。
「のど飴とか、うがいとか、してみた?」
うん。
私は大きく頷く。
そして、首を横に振る。
その様子をしっかり見た黒田君は、大きなため息をつきながら、言った。
「どうするんだよ。主役だぞ」
私は大きく頭をさげて、出ない声で謝った。
「おはよっ。どうした?」
登校してきた野村君が、クラスの様子がおかしいのに気付いて黒田君に声を掛ける。
「河野さん。声が出ないんだって」
「えっ、嘘?マジ?」
野村君は私を見て、確かめた。
私は頷いて、口を開いた。
「ごめんなさい」
それは、さっきと何も変わらない、カサカサで良く聞こえない声。そしてまた咳が込み上げて、乾いた咳を何度もする。
野村君は黒田君と顔を見合わせて、どうする?と言う風に目で会話している。
「おはよう」
爽やかな挨拶とともに、佐伯さんが教室に入ってきた。
でも、野村君と同じで、様子がおかしい事に気付いて輪に入る。
近くの女子に事情を聞いた佐伯さんが、私の前まで来ると話しかけた。
「河野さん。本当に声が出ないの?」
心配そうにのぞき込む。
私は頷いて、口を開く。
「ごめんなさい」
もう、わたしの口から出てくる言葉は一つしか無い。
そして、無理やり声を出すと、咳が出る。
私の声と様子を見た佐伯さんは、悲痛に顔を歪めて、もう一度私の目を覗き込んだ。
「本当に?」
私と同じくらい、微かな声で私に問いかける。
私は、ぎゅっと唇を結んで、佐伯さんの手をとり、真っ直ぐ目を見て祈りながら頷いた。佐伯さんも同じように頷くと、後ろで相談している黒田君と、野村君に向かって言った。
「私が、河野さんの代わりをします」
ハッキリと、力強く。
二人は驚いたまま、動きを止めた。
「じゃ、ナレーターは?」
輪の中から誰かが囁いた。
「ナレーターは駿君がして。ずっと演出してきたから、出来るよね?」
力強く、一歩、二人に近づく佐伯さん。
「えっ、まぁ、出来ると思うけど⋯」
佐伯さんの迫力に押されるように、黒田君が答える。
野村君は、私の方へやって来て確かめた。
「小春がシンデレラでいいのか?」
その顔は、真剣で少し恐かった。でも、最後の勇気を振り絞ぼり、野村君の目を真っすぐ見て頷いた。
「分かった」
野村君は取り囲んでいるクラスメイト達に改めて発表した。
「シンデレラは小春。ナレーターは駿がする。みんな、協力して頑張ろう」
野村君の言葉で、不安な空気が、一気に希望へと変わった。
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