最愛の人へ

松たけ子

最愛の人へ

『拝啓、最愛の君。そちらでは変わりなくお過ごしでしょうか?』

 ──これでは嫌味かな。

 そう思い、走らせていたペンを止め、頭を掻いた。

 自分なりに綺麗に書けたと思う文字を惜しいと感じながら、その感情を丸めるように便箋をぐしゃぐしゃにした。ただの紙屑になった便箋をごみ箱に放り投げ、新しいものを取り出す。

 ペンを持ち、さあ何と書き出そうかと迷った。便箋の少し上でペンをぐるぐると回す。何かを考えている時の私の癖だ。いや、悪癖か。

 ──そういえば、あの子に言われたな。

 ふと、あの日のことを思い出し、「あ」と声を上げた。

 うん、そうだ、そうしよう。

 勝手に一人で納得し、鼻歌を歌い出す。

 私は便箋に向かい、手紙の贈り主に向けてペンを走らせた。

 書き出しは、こうだ。



 ****



 私と彼女が出会ったのは、私たちが中学生の頃だ。

 物語によくあるような、ありきたりな出会い。

 入学式の日、桜が新入生を祝うように花開き、少しずつその役目を終えて舞い散る中、私たちは初めて互いの存在が世界にあったことを知った。

 そして、それは互いに恋に落ちた瞬間でもあった。

 まあ、そのことを知ったのは随分と後になってからだが。私も彼女も、自分のことに関しては疎かったらしい。おそらく、二人とも一目惚れの初恋だった。

 お互い、まだ恋を自覚していなかったが、相手の雰囲気に何か相通ずるものを感じてはいたから、特に時間をかけることなく友人になれたのだろうと思う。

 彼女の性格を一言で表せと言われたら、竹を割ったような性格と答えるだろう。

 梅雨のようにウジウジとすることを嫌い、物事を曖昧にすることを良しとしない。しかし、懐は深く、他者に対する理解も広い。思慮深く、気高い人だった。

 私たちは誰よりも仲の良い友人同士であった。

 言いたいことはその場で言え、胸の深いところまで打ち明けることができた。

 気付けば、私たちは互いの存在がなくてはならないものになっていた。

 それは、恋や愛では語ることのできない絆だったように思う。

 人が息を吸うように、季節が移ろい往くように、ごく自然に二人は寄り添っていた。

 そんな日々が続いており、今日も〝そんな日々〟の一部になるだろうと思っていた放課後のある瞬間。

 たった一言、されど一言が、私たちの世界を変えた。

「ねえ、恋って、したことある?」

 彼女が日誌を書きながら、こちらを見ることもなく、独り言でも呟くように聞いてきた。

 突然のことで私は呆気にとられ、暫しの間、目を閉じたり開いたりと、無意味な行動を繰り返していた。

 質問から数秒しか間が空いていなかったと思うが、彼女は日誌に向けていた目を少しだけこちらに向けて、不機嫌そうに言った。

「……ねえ、聞いてる?」

「へっ? あ、ああ、うん、はい。聞いてます」

 動揺していたせいで、つい敬語になってしまった。彼女は更に眉根を寄せて、問い詰めてきた。

「聞いてるだけで、質問の意図は分かってないよね?」

「えーと……」

 確かに彼女の言う通り、突然聞かれた質問の内容に驚いただけとは言えなかったので、思わず黙り込んでしまった。視線がふよふよと泳ぐ。

 十秒ほどの間を空けてから、彼女はため息を吐いて、呆れたように言った。

「何でも分かってもらえると思っちゃダメだね。ちょっと反省した」

 自分に向けたのであろう独り言は、教室の空気を吸って溶け、私の口から入り、胸へ罪悪感と焦燥感を植え付けていった。

 しまった、と思った時には遅かった。

 植え付けられた黒い根は心の深くまで入り込み、呼吸を妨げていく。背中から熱が生まれ、首元まで上がってくる。

 別に、さっきの言葉は私に言ったんじゃない。彼女が自分の行いに対して言ったんだ。

 そう分かっているのに、彼女の呆れたような声が耳から離れない。突き放すかのような台詞が心を乱していく。

 気付けば、帰り支度を終えた彼女が教室を出て行こうとしていた。

 私はとっさに立ち上がって、叫ぶように言った。

「恋したこと、ないよ」

 彼女は扉の前で立ち止まり、振り返ってから、どこか安心したような表情で言った。

「そっか。よかった」



 ****



 一枚目の便箋を書き終え、張り詰めていた糸を解すように、息を吐いた。ペンを置き、手紙を読み直す。

「……うん、まあ、こんなもんかな?」

 初めての手紙にしては上出来ではないだろうか、なんて自画自賛してみる。

 間違いが特にないことを確認し、丁寧に折りたたむ。まずは一枚目の完成だ。

 傍らに置かれた水を飲み、二度目の息を吐いた。今度はゆっくりと、落ち着かせるように。

 窓の外は気持ちがいいほどの晴天で、部屋の中にも微かに陽光が射し込んでいる。どうりで調子が良いわけだ。

 ──今日は何をしているのかな。

 薄く広がった青空を眺めながら、遠い彼女のことに思いを馳せる。

 そういえば、あの子は青色が好きだったな。

 ──よし、次はあれを書いてやろう。

 次の便箋に書く内容は決まった。別に急ぎの用でもないので、暫くの間、青空に身を溶かすことにした。



 ****



 あの日から、私たちの関係に変化が生まれることはなかった。

 今まで通り、一緒に学校へ行き、学び、感情を共有し合い、明日の約束をする。

 変わることのない、当たり前の日常。

 いつしか私は、〝あの日〟のことは夢か幻だったのではないかと思い始めていた。

 あの夕暮れの教室、初めて聞いた彼女の声、感じたことのない焦りと恥ずかしさ。そのどれもが、日常では感じられなかったもので、あの日だけがどこか遠くに切り取られ、置き去りにされたような錯覚を与えていた。

 今でも、彼女の言葉が頭から離れない。

 ──恋って、したことある?

 なら、君は誰かに恋をしているの?

 そう思った時、何故か胸のあたりが、チクリと痛んだ。

 針のように鋭く、小さな鉛のように重たいその痛みの正体を、あの時の私はまだ知らなかった。



 ****



 手紙を書こうと思ったのは、単なる好奇心だ。

 私が書いた手紙を、あの子はどんな顔で読むのか。

 驚くだろうか、笑うだろうか、泣くだろうか。それとも、怒るだろうか。

 なんでもいい。どんな顔で読まれようが、私には関係ない。

 もうすぐ消えてしまう、私には。



 ****



 最初に変わったのは、私の方だった。

 きっかけはなんてことのない、些細なことで、だから余計に言いたくないという気持ちもあるが、話の流れ上、必要そうなので述べようと思う。

 私と彼女はそれぞれ違う部活動に所属していた。私は家庭科部、彼女は吹奏楽だった。彼女の担当はトランペットで、よく家庭科室の前で個人練習をしていた。

 時々聞こえてくる彼女の音は、家庭科部の中でも評判がよく、楽しみにしている子も多かった。もちろん、私もその一人だった。

 昼間は騒がしい校舎を清めるように、澄んだ音が夕暮れと共に美しい小夜曲を奏でる。この曲を聴くことで、私はその日一日を無事に終えられたのだと安心するのだ。

 その日は珍しく、私以外の部員が全員休んでいた。顧問の先生も会議でおらず、私は一人で今度の文化祭に出展するクマのぬいぐるみを作っていた。

 ミシンの入った棚の上に置かれてある卓上サイズの小さな振り子時計の音だけが、教室の中に響く。

 不意に、誰かが教室の扉をノックしたと思ったら、私の返事も待たずに中に入ってきた。犯人は彼女だった。

「あれ、今日は一人?」

 室内を見渡してから、彼女は意外そうに聞いてきた。いつもは誰かしらがいたから、違和感を覚えたのだろう。

 私はあげていた視線をぬいぐるみに戻し、手を止めずに答えた。

「皆、テスト前だから休むって。先生も会議」

「ふーん。君は休まなくていいの?」

「そういう君こそ、トランペット持ってるってことは、部活でしょ? いいの、勉強しなくて?」

「家でそれなりにしてるからね。……ねえ、誰もいないなら、ここで練習していいかな?」

「中で? まあ、別にいいけど……」

 私がそう言うと、彼女は譜面台とトランペットを持って、窓の近くに立った。手際よくトランペットを調節し、メトロノームで音を合わせていく。

「今度の文化祭の練習?」

 クマの顔を縫いながら、彼女に声を掛けた。

「いや、その前に大会があってね。今はそれの練習。この時期は色々と被るから面倒だよ」

「それはそれは。お疲れ様」

「そう思うならお茶の一杯でもご馳走してほしいな?」

「今日は調理実習の予定ないから無理でーす」

 互いに軽口を叩き合いながら、それぞれの作業を進めていく。

 すると、準備が終わったのであろう彼女が、

「ねえ」

「んー? 何?」

「今から一曲だけ通しで練習するから、聞いててもらえないかな?」

 私は手を止めて、彼女を見た。

「いいけど……私、音感ないからズレとか分からないよ?」

「うん、聞いてくれるだけでいいから」

「じゃあ、それで」

 作りかけのぬいぐるみを机に置いて、姿勢を正す。

 彼女は吹奏楽部の中でもパートリーダーを任されるほど上手いらしい。そんな彼女の演奏を独り占めできるのだから、態度だけでもそれらしくしておこうという小さな見栄だ。

「準備はよろしいですか、お客様?」

「はい、いつでもどうぞ、演奏者さん」

 彼女が得意げに笑う。

 息を一つ吸って、彼女はトランペットを吹いた。

 ただ一音。最初の音で、私の意識は全て彼女の音に吸い込まれていった。

 それは、黄金色の旋律。空高く響くのは、力強い命の音。

 トランペットのベルが夕日の光を受けて輝き、それが彼女の凛とした横顔を微かに照らしている。

 静かに、厳かに、だけど雄大に奏でられる曲が、小さな教室を満たしていく。

 美しく伸びた背筋が、彼女が気高く、誇り高い演奏者であることを示していた。

 音一つ違えることなく、自身の命を注ぎ込むように高らかに吹き上げる彼女の姿は、あまりにも神々しく、神聖な神の劇場に足を踏み入れたのではないかと錯覚しそうになった。

 ただ一言、美しいという言葉以外に彼女を、この空間を、この瞬間を言い表すことが私にはできなかった。

 演奏を終え、息を一つ吐くと、彼女は無邪気な笑顔を私に向けてくれた。

「どうだった? 綺麗に吹けてたかな?」

 それまで時が止まったように動けなかった私は、彼女に声を掛けてもらうことでなんとか我に返ることができた。

「う、うん! すごく綺麗だった! なんていうか……その……うん……綺麗だった……」

 あまりの感動に、上手い言葉が出てこなかった。もっと他に言うことはあっただろうに、あまり優秀でない私の頭の中はなんとも残念かつ陳腐な誉め言葉しか浮かばなかった。

 しかし、彼女はそれを気にした様子もなく、嬉しそうに笑ってくれた。

「よかった。君のために練習したんだ、喜んでくれて嬉しいよ」

「え? 大会の課題曲とかじゃなかったの?」

「もちろんそうだよ。でもこの曲、君に似合うなあって思って。聞いてほしかったから頑張って練習したんだよ」

 悪戯が成功した子供のように笑う彼女が眩しくて、なのに目が離せなくて。

 少女漫画の主人公みたいに心臓がうるさくて。

 あの時、ようやく私は自分の中にあった恋心を自覚することができた。



 ****



 二枚目を書き終え、ようやく全てから解放された。

 もう思い残すことはない。伝えるべきことも、伝えたいことも、この手紙に書いてある。あとはあの子がこれを読んで、燃やしてくれればいい。残すことなんてない。もうすぐ死に逝く私の言葉など、これから生きていくあの子には不要のものだ。

 起き上がらせていた上半身をベッドに沈める。

 目を閉じて、戯れに昔のことを思い出してみた。

 私が初めてあの子を好きだと自覚したのは、二年生の秋、家庭科室であの子のためにトランペットを吹いた時だ。

 あの日は珍しく、あの子以外に誰も来てなくて、二人きりになるチャンスだったから、部活の練習にかこつけて一曲だけ演奏した。

 曲名は『You raise me up』──嵐のような困難も、高い山の頂を望むような挑戦も、貴女が支えてくれたから乗り越えることができたんだと、親愛と感謝を込めた歌。

 あの子は、いつだって私の言葉を受け入れてくれた。私を信じ、心から寄り添ってくれた。

 あの子がいたから、私は寂しさを忘れることができた。

 それを伝えたくて、必死に練習をしていた。心を込めて、上手く吹けますようにと祈りながら。

 体中から息吹をかき集め、音へと変えていく。

 高く伸びる音は荒れ狂う嵐の海を、低く佇む音は厳しい山の頂を。

 静かに語りかける詩は貴女へ捧げる親愛の音。

 体が軽い。意識せずに思うままの音が奏でられる。

 今なら、この世界で一番上手に吹けていると言える気がした。

 吹き終わった後、これまでの演奏の中で最高の達成感を感じた。ただ伝えたくて、夢中で吹いていたのだ。

 感想を聞こうとあの子の顔を見た瞬間、私は言葉にできないほどの愛おしさを感じた。

 あの子は目を小さな子供のようにきらきらと輝かせ、今にも踊り出しそうなほど体が震えていた。うっすらと赤くなった頬が、彼女の心を雄弁に語ってくれていた。

 伝わった、伝えられたんだ、私の音楽で。

 嬉しかった。ただただ純粋に嬉しくて、思わず抱きしめたくなった。

 同性相手に何言ってんだ、と思わなくもなかったが、それよりも強い感情が押し寄せて、そんなことはどうでもよくなった。

 自然と口元が綻び、心が熱を持って沸き立ち、体中を巡っていく。

 今まで感じたことのない興奮と感情が目の前を鮮やかに彩っていく。

 ──ああ、そうか。これが。

 

 ──これが、恋をするということだったんだ。

 幼かったのは私の方だった。

 自分の恋心に気付くのに、こんなにも時間がかかっていたのだから。



 ****



 あの頃の私にとって、彼女が好きだと知った時、それは同時に失恋の瞬間でもあった。

 だってそうだ。普通の子は男の子を好きになるものだから。

 私は自分が変わっているとは分かっていたが、それを否定することもしなかったし、受け入れてもらおうと思ったこともない。

 ただ、好きでいられればそれでよかった。それだけで幸せだった。

 だから、彼女からあんな台詞を聞くなど、夢にも思わなかったのだ。

 私が変わるきっかけとなったあの時と同じ、夕暮れに染まった、誰もいない教室。

 向かい合うようにして座る私たち。他愛もない会話の中。

 不意に、透き通るような彼女の声が響いた。

「もしさ、私が女の子のことを恋愛とかそういう意味で好きかもしれないって言ったら、どうする?」

 一瞬、息が止まるかと思った。

 自分の気持ちがバレてしまったのかと危惧したからだ。しかし、彼女の様子を見るからにその可能性は殆ど無いに等しそうだったので、私は何とか答えることができた。

「……どう、って?」

「例えば、気持ち悪いとか……そういうこと思ったり……」

「ない。絶対にない」

 そう。それだけは、どんなことがあっても無いと言い切れた。だから、彼女の目を見て、きっぱりと返した。

「私は、君が誰を好きになっても、ずっと好きでいられるし、傍に居るよ」

 これは少しだけ嘘だった。

 本当は、誰も好きになってほしくない。願うなら、私を好きになってほしい。だけど、それは、それだけは絶対に存在しない未来だから。

 だから。せめて、他の誰も好きにならないで──なんて醜く、浅ましい願いだろう。

 でも、彼女が他の誰かを好きになることよりももっと嫌だったのは、そんな自分の心を知られることだった。こんな汚い感情を知られるぐらいなら、彼女を別の誰かに取られた方がよっぽどマシだ。

 好きになってもらえなくてもいいから、ただ、傍に居させてほしかった。私には、それだけで十分だ。

 そう思って言ったことなのに、彼女が返してきた言葉は更に私を驚かせた。

「じゃあ、君が私のことを好きになってよ。そしたら、もっとずっと傍に居られるのに」

 初めて見る顔だった。

 頬杖を突いて、寂しそうな表情で彼女は私を見ていた。

 眼には願いか叶わないことへの諦めを滲ませておきながら、言葉からは微かな希望に縋りたいという本心が感じ取れた。

 私はカラカラになった喉から、必死に声を絞り出した。

「えっと……。それだとまるで、君が私のことを好きみたいじゃない」

 わざとおどけて言うと、彼女はその表情に呆れを足して言った。

「そう言ってるんだけど、伝わらなかった?」

 もはや返す言葉どころか、おどける余裕すら消えた。

 おそらく人生の中で、こんなに驚かされることは二度とないだろう。

 そして、こんなに幸せな瞬間も、二度と訪れないだろう。

 返事をしなきゃいけないのに上手く言葉がでなくて、どうすればいいのか分からなかった。

 色んな感情が入り混じって頭の中でぐるぐると回っているのに、何一つ伝えられなかった。

 ただ無性に、彼女に触れたくなった。

 手を伸ばして、彼女の頬にそっと触れた。傷付けないように、壊してしまわないように。

 急に私が触ったから、彼女は少し驚いて、

「……どうしたの? 急に頬っぺたなんか触って」

「こんな顔もするんだなあって……」

「そりゃあね。鉄面皮じゃないんだから」

「うん……そうだよね。でもね……」

 白い陶器のような肌が、夕日に照らされて橙色に染まっていた。

 教室の中を、金色の小さな光がチラチラと舞う。

 綺麗に整頓された教室の中、誰もいない放課後、二人だけの秘密。

 ずっと溜め込んでいた想いは、意外にもすんなりと私の口から零れ落ちた。

「ただ、君が好きだなあって思ったんだ」

 彼女の笑顔は、今まで見た何よりも、一番美しかった。



 ****



 想いが叶った時、私は同時に覚悟も決めていた。

 いつか来るであろう、別れの時。その時に、笑顔であの子を送り出す覚悟を。

 私たちには大きな夢があった。

 子どもたちを育てるという大きな夢、大切な未来が。

 あの子は教師として、私は医者として、二人で子どもたちを守って、育てようと。

 だけどそのためには、私たちは別れなければならない。

 これから進む道は細く険しい。辿り着く先は狭き門だ。

 二人で並んでいくことなんてできない。手を繋いで歩いていくことなんて許されない。

 私たちの道は違う場所にある。

 きっと、お互いの背を向け合って歩かなければならないだろう。

 もしかしたら、もう二度と会えないかもしれない。

 それでも、私たちは別れなければならない。

 お互いの未来のために、叶えたい夢のために。

 たとえそれで、二度と手を繋ぐことができなくなったとしても。

 貴女に愛されなくなったとしても。


 でもね、本当は──。



 ****



 あの日から、私たちの関係は〝友人〟から〝恋人〟に変わった。

 変わったとは言え、大っぴらに明かせるようなものではないから、表面上は何の変化もないように見えただろう。

 だけど、ほんのちょっとした時。

 たとえば、ご飯を食べるとき、部活ですれ違う一瞬、二人で並んで帰る夕暮れ。

 そんな些細な一コマの中で、私たちは恋人として触れ合い、寄り添っていた。

 世間一般が見ている恋人同士とは違っているかもしれない。

 私たちの姿は、友達の延長線上にある関わりのように見えるかもしれない。

 でも、それでよかった。ただ彼女の傍に居て、笑い合えるなら、他人からどんな風に思われても構わなかった。

 彼女が幸せなら、他に望むことなんて何もなかった。

 些細な日常が、まるで額縁に飾られた絵のように美しく、愛おしいものになっていた。

 何の代わり映えもない、刺激もない生活でも、私は満足だった。

 だが、人との繋がりは時に残酷な未来を呼ぶ。

 それは私たちとで例外じゃなかった。いや、むしろ私たちだからこそ、この未来は必然だったのかもしれない。

 迎えるべき別れは、私たちが本当に望む未来に、一番近かったのだから。


 卒業する一週間前。担任の先生に頼んで、特別に教室を開けてもらい、二人で話をしていた。

 私はその時、心のどこかで確信していた。

 今日が彼女と会える、最後の日なんだと。

 幸か不幸か、その確信は間違っていなかった。

 夕日が校舎を照らし、金色の塵が舞い始めた頃、私たちは帰路についた。

 お互いの家は反対方向にあるため、途中の交差点でいつも別れていた。

 交差点に差し掛かった時、不意に、彼女が呟くように言った。

「……来週でお別れだね」

 その言葉に、ああ、来てしまったんだ、と重く苦しい絶望を感じたのを覚えている。

「そうだね……」

 心の籠っていない、空っぽで鈍い返事が、足元に落ちていった気がした。

 彼女は既に有名私立高校の受験に受かっていた。私は公立なので、卒業後に受験だった。

 卒業してしまえば、もう会うことはないだろうと分かっていた。

 私たちは互いに、大きな夢に向かって茨の道を歩き続けなければならないから。

 そこに二人は並べない。手を繋ぐことも許されない。

 叶えたい夢のために、得るべき未来のために、私たちは互いに相手を手放さなければならない。

 分かっている。それが正しい選択だと。

 分かっているのに、心のどこかで考えてしまっていた。

 ──いっそ、夢を捨ててしまえば。

 二人を別つものを捨ててしまえば、ずっと一緒にいられるのではないかと。

 心からそうしてもいいと思っていた。彼女の傍に居られるなら、夢を捨ててもよかった。

 だけど──。


「ダメだよ」


 ──だけど、きっと彼女は許してくれない。

 隣を見ると、彼女が真っ直ぐに私を見ていた。

「ダメだよ、夢を捨てちゃ。そんなことのために、君の大切な未来を奪いたくない。夢を捨ててほしくない」

 迷うことも、諦めることも、立ち止まることも、捨て去ることも許さないという強い意志。

 私に、自分自身に、一切の甘えを認めない言葉。

 ──ほら、やっぱり許してくれなかった。

 彼女に気付かれないように、こっそりと自嘲した。

 分かっていた、彼女はそういう子だと。

 目的のためなら、大切な何かを切り捨てることができる、強い子だと。

 私のように、甘い未来を望むような子ではないと。

 俯きながら、私は自分自身を説得させるように言った。

「……大丈夫、捨てないよ。こんなことで捨てられるほど、私の夢は小さくないもん」

 嘘だ。

 彼女が許してくれるなら、きっと今すぐにでも捨てただろう。

 だけど、そんなことをすれば、きっと彼女は私を憎むだろう。そんなことは彼女も望んでいないし、私だって嫌だった。

 彼女の笑顔が大好きだった。時に花のように綻び、時に太陽のように眩しい、そんな彼女の笑顔が大好きだった。

 彼女の笑顔が見たくて、私は嘘を吐いた。

 これで二度目。そして、最後の嘘。

「私は歩くよ。君と会えなくなっても。手を繋いで、温かく優しい道を歩くことができなくても。私は、自分の夢を叶えるよ」

 真っ直ぐに、彼女を見つめる。

 迷わないように、揺らぐことがないように、この手を伸ばしてしまわないように。

 彼女が望み、愛し、守ってくれた〝私〟で在り続けられるように。

 私の言葉に、彼女は安堵の表情を浮かべた。眼に、微かな悲しみを含ませて。

「絶対、叶えてね。迷わないで、後ろを振り返らないで。ただ、目の前の道を歩いて。私も、自分の足でちゃんと歩くから。大丈夫、今ここで一緒に歩けなくても、辿り着く場所は同じだから。……だから……」

 彼女が笑った。

 初めて手を繋ぎ合ったあの日。夕暮れの橙色に染まった、柔らかく、優しかったあの笑顔で。

 私が世界で一番、大好きな笑顔で。

「さようなら、愛してるよ」

「……さようなら、私も、愛してるよ」

 信号が青に変わった。

 私たちは互いに背を向けて歩き出した。

 帰る場所は違う。だけど、目指す未来は同じだ。

 さようなら、愛しい人。

 さようなら、私を愛してくれた人。

 さようなら、もう二度と会えなくても、君は私の、最愛の人でした。



 ****



 本当は、別れたくなかった。

 目指す場所が同じなら、二人で広い道を笑いながら歩いていけばいいじゃないか。優しい未来を選んでもいいじゃないか。

 一人で孤独と向き合い、時には暗い闇に先を飲まれてしまうような狭い道なんか捨てて、明るい道を歩いていこうよ。

 ──そう言えたら、どれだけ幸せだっただろう。

 あの子の手を握って、二人で頑張ろうと言ってあげられれば、どれだけ楽だっただろう。

 だけど、そんなことをしてはいけない。

 あの子の未来は、そんなことで奪われてしまっていいものではないんだ。

 そして、私が目指す夢も、こんなところで捨てられるほど軽いものではない。

 私たちの手はとても小さい。手に入れられるものには限度がある。多くを持っては歩けない。

 ならば、捨てていくしかないじゃないか。どんなに惜しんでも、どんなに苦しくても、手放さなければならないものがある。

 分かっていたことじゃないか。

 それを今更なかったことになんてできない。

 夢を手に入れるために必死で歩いてきたあの子を、これまで努力してきた自分を、こんなことで捨てるなんてできない。

 この手はお互いの手を繋ぐためにあるんじゃない。

 もっと大切なものを、自分の願いを手に入れるための手だ。

 

「さようなら、愛してるよ」

 上手く、笑えただろうか。

 いつかあの子が言ってくれた、あの子が大好きな笑顔で、見送ることができただろうか。

 それを確かめる術はない。

 だって二人はもう歩き出してしまっているから。

 振り返ることはできない。呼び止めることも、泣いて縋りつくこともできない。

 これでいい。これでよかったんだ。

 あの子は先生に、私は医者になって、自分の夢見た未来を手に入れるんだ。

 さようなら、愛しい人。

 さようなら、私を愛してくれた人。

 さようなら、君は私の、最愛の人でした。





 ****



 二〇一七年、七月二七日。

 彼女が亡くなった。

 報せを受けたのは、既に葬式が済んだ後だった。彼女のお母さまが、電話をくれた。

『ごめんね……今忙しいだろうから、煩わせたくないって、絶対に言おうとしなかったのよ……。ごめんね……』

 涙声で何度もすまなそうに「ごめんね」と繰り返すお母さまに、大丈夫ですよ、と返したこと以外、私は何も覚えていない。

 ただ、何かをしていなければ、今にも死んでしまいそうだった。

 丁度、その時は試験やら旅行の準備とやらで忙しく、やらなければならないことが多かったので、ひたすらそれに打ち込んでいた。

 気付いた時には、病院のベッドで点滴を受けていたが。もちろん、お医者様にはキツイお叱りをもらった。

 体調が回復した頃、私は彼女の家にお邪魔した。

 出迎えてくださったお母さまは、少しやつれていた。

「風邪をこじらせてね……。診断を受けた時には、治る可能性が五分五分って言われたの。馬鹿よねえ、あの子も。なんであんなに無理したんだか……」

 呆れたように笑いながら、お母さまが教えてくれた。

 墓も、土地の無駄遣いだからいらないと言っていたそうで、骨は永代供養に出すそうだ。

 最後まであの子らしかったんだな、とほんの少し安心した。

「貴女が来るだろうと思って、納骨の日をずらしてもらったの」

 そう言って案内された仏壇の前には、懐かしい彼女の遺影と真っ白な布に包まれた小さな箱があった。

 上げたてのお線香の匂いが鼻を掠めた。奥に漆塗りの立派な仏壇が鎮座する以外は何も置かれていない殺風景な和室が、妙に肌寒く感じた。

 不意に、視界が滲んだ。

 目の奥がキュッと痛みだし、胸がぐちゃぐちゃにされたかのような感覚に襲われる。

 胃の中がキリキリと痛みだし、足も震えてまともに立つこともできなかった。思わずその場に膝を突いた。

 反射的に抑えた口からは、声にもならない嗚咽が漏れた。口の中に塩の味が広がった。

 感情の全てが悲しみと絶望に染められ、頭の中が彼女との思い出で黒く塗りつぶされた。

 彼女が死んだと聞いた時、私の心は空っぽになった。

 何も考えられず、ただ息をしなければならないという義務に従って動いていた。

 だが、時が経ち、彼女の遺骨を目にして、私はようやく自分の意思で彼女の死を受け入れることができたのだ。

 ──ああ、彼女は死んでしまったんだ、と。

 空っぽになった心のどこかで、無意識に思っていたんだ。

 これは悪い夢だ、何かの冗談だと。

 しかしどうだ。彼女が死んだのは夢でもなければ冗談でもない。まぎれもない現実だったじゃないか。

 なんて愚かなんだろう。なんて惨めなんだろう。

 昔から変わらない。

 現実を受け止められずに生温い夢の中に逃げて、結局取り返しのつかないことになって。

 そうなってから漸く自分の行為が、考えが、如何に愚かで馬鹿げていたかを思い知るんだ。

 震える手で、そっと、彼女が入っている小さな箱に触れた。

 こんな小さなものが、彼女だったというのか。

 こんなにも冷たいものが、かつて私の手を握ってくれた彼女だというのか。

 もう耐えられなかった。

 逃げ場のない現実を突きつけられた私は、彼女の入っている小さな箱に縋りながら、心のままに泣き叫んだ。

 外では、いつの間にか雨が降っていた。



 ****



 これは、その帰りにお母さまから渡された、彼女の手紙の冒頭だ。

 正直、最初に読んだとき「涙を返せ!」と思ったものだ。

 だが、実に彼女らしい一文だと思ったのも事実だ。

 手紙は彼女の遺言通り、全て燃やしてしまったので現存しないが、せめてこれだけは紹介しておきたいと思った。

 書き出しは、こうだ。



『やーい、泣いてやんのー、ざまあみろー! ……なーんてね。冗談だよ、ごめんね』



 ****



「ねえ、それ」

「それ?」

「ペン回し。考えてる時、いつもしてるよね。癖なの?」

「あー、あんまり意識したことなかったかも……。癖なのかな?」

「ふーん。……いつ落とすかなーって見てたんだけど」

「ふふーん、残念でしたー。私、これで落としたこと一度もな……あ」

「……」

「……」

「……ぷっ! やーい、落としてやんのー、ざまあみろー!」

「なんだとー!」

「あはは! ……なーんてね、冗談だよ、ごめんね」

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最愛の人へ 松たけ子 @ma_tsu_takeko

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