第7話



 ついに、藤瀬が唱えるところの、試験勉強を開始するべき日時がやってきた。試験は夏休み明け初日、一週間後だ。解剖学の入り口となる「骨」のテスト。

「華岡、蝶形骨の穴全部覚えたか」

「あー、多分」

「やばいんだよ、マジでわかんないんだ」

 藤瀬は頼りにしているらしいシケプリを眺め、苦戦していた。蝶形骨というのは、頭蓋骨の内側、脳の底を支える骨で、多数の神経が外へ出ているため、幾つもの小さな穴が空いている。この穴一つ一つに対応する神経が存在し、その神経が果たす役割が存在する。

「お前一週間でやるんじゃなかったのか」

「めちゃくちゃ後悔してる」

「……意外と弱音吐くんだな、お前」

「うっせ」

 溜まり場になっている麻雀サークルで、今日も蝉時雨を聞きながら俺たちは勉強している。夏休みの初めと違うのは、彼が加わったことだ。つい一週間前、俺は廊下で練習していた笠井に声をかけたのだ。数回は輝きラーメンへ行った仲だ。少しくらい話してみようと思って。

『な、なあ、笠井? 勉強どうだ?』

 その時の自分が、酷くみっともなく思えて、何だか情けない。勉強どうだ、って何だよ。もっと気の利いた話できただろ。

『ああ、華岡くん。どうしたの、今日も勉強?』

『ああ。そこの麻雀サークルで勉強してて。アイツと』

『ああ、藤瀬くん?』

 笠井はクスクス笑った。内緒話をしているみたいなくすぐったさだった。

『藤瀬くん、面白いよね。いいなあ、私も混ぜてよ。一人で勉強してるとしんどいんだ』

 俺はその言葉に目を丸くした。『私も混ぜてよ』。何だかわからないが、好機だと思った。いいぜ、と一言言えばいい。その一言で何かが変わるんだ。

 握りしめた手のひらに汗をかいていた。ゆっくりと開き、汗が少しだけ蒸発する涼しさを感じながら、できるだけ平坦に言った。

『お前も来いよ。いつでも来ていいから』

 ま、俺は麻雀サークルの主人でも何でもないんだが。そもそも誰の許可を得てあそこを使っているのかよくわからない。

 それから、笠井は麻雀サークルを訪れるようになった。


「笠井? 寝てんのか」

「ん……」

「起こしてやるなよ。昨日夜中まで練習だったんだから」

「マジかよ。オケって容赦ねえな」

 声を顰めて藤瀬と会話する。笠井が所属する管弦楽団は試験休みを取らない。しかも、演奏会に出演するためには相当の修練を積まなければいけないらしい。有名指揮者すら輩出した伝統ある学生オーケストラだ。単位を落としてこそ、という構えで彼らは練習に挑んでいる。

「…………」

 机に突っ伏して眠る横顔は、どこかあどけない。透き通るような肌には青く毛細血管が浮かぶ。痩せて落ち窪んだ眼窩に、黒く艶めいた瞳があることを、俺は知っている。

「ホーン」

 藤瀬はボールペンをブンブン振り回した。

「何だよ」

 何か物言いたげな視線がうざったく絡んで、俺は藤瀬を睨みつけた。

「君、笠井のこと気になってる?」

「は?」

 俺がそんなふうに返事したのに、藤瀬は笑いながら話を続けた。

「笠井ってさあ、なんか、あー、なんていうかさ、プリンセス感あるよね」

 何だよ、プリンセス感って。

「言いたいことはちょっと分かるが、ボキャ貧」

「そう? あー、確かにプリンセスっていうとキラキラしてるな。あ、そうそう、『深窓の令息』だ」

「…………そうだな」

 しんそうの、れいそく。噛み締めるとなるほど笠井だと思った。ヴァイオリンを弾く横顔はきりりとしているがどこか物憂げで。話すと純粋で、言葉も丁寧で。そういや、ラーメン食べたことないとか言ってた。

「……恋、だ……」

 藤瀬は這い寄る猫のような姿勢で、くわっと口を開け、「恋だ」と繰り返した。そういう妖怪かよ、怖いわ。

「君が笠井のどこが好きか僕には分かる」

「ま、待てよ、そもそも俺が好きとか嫌いとか……」

「ときめいちゃってるくせに」

 にじり寄ってくる藤瀬をかわそうと後ずさると、ちょうど笠井が俺の横に座っていたものだから、トンと背中がぶつかってしまった。

「ん……? あ、私寝てた?」

 くぁ、と口を開けて笠井があくびする。俺がこっそり背中にかけてやってたブランケットがずり落ちた。冷房効いてて寒いだろ?

「あはは、これ華岡くんがかけてくれたの? ありがとう、優しいんだね」

 笠井がにっこり笑う。なんか、その顔がさ。俺が今まで見た誰の笑顔よりも、純粋なんだよ。本当に、「ありがとう優しいんだね」って笠井は言いたいんだって伝えてくれる。俺、そんな笑顔向けられたことない。そうやって笑えるやつを、知らない。

「ッ…………」

 恋だ、という藤瀬の声が、心臓をバクバクと内側から跳ねさせる。恋だ。こい、だ。

 意識してしまったらもうダメで、熱く赤くなる顔を素面に保てなかった。

「どうしたの、華岡くん」

 キョトンと、眠そうな瞳が俺を見つめている。

「なん、でも……ねえ……」

 ちらっと見れば藤瀬はブフッと笑いボールペンを揺らしていた。肩も震えている。何だよ、何がおかしいんだよ。

 俺の中で、藤瀬の「恋だよ」がぐわんぐわんと反響していた。笠井と視線を繋げてわずかな瞬間にその想いが込み上げ、ショートする。

 ただむず痒い思いだけが喉元をくすぐる。ペンをまた握ろう。それだけを考えてボールペンに触れ、何とか握った。プリントを見ても上の空で、文字が滑る。

『恋だよ』

 そうなのか、藤瀬。


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ヒポクラテスに誓って俺はお前を好きじゃない @kousakashu

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