第6話



 夏休み中の勉強には、藤瀬の別宅と化している麻雀サークルのクラブボックスを使った。家で一人勉強していると落ち着かなかった。その点藤瀬でもいないよりマシだった。

 プレハブの床がミシミシと鳴る。廊下に散らばったままのビラを片付けるものは誰もいない。茶色い足跡のついたプリントばかり落ちている。重ねられた段ボールやゴミを入れたままのゴミ袋が目立つ。

 いつもの場所に足を踏み入れた時、不意に音が聞こえた。

――なんだ?

 音楽だ。高い音で、これはきっとヴァイオリン。思った通り、廊下の突き当たりに、ヴァイオリンを立って弾いている男子学生がいた。

「…………」

 俺が見ていることに気がついて、彼は演奏をやめてしまった。管弦楽団のクラブボックスもここにあるから、きっと管弦楽団の人間だろう。

 不安げな瞳が、ゆらゆらと俺を見ていた。続けろよ、って言うのも下品に思えて、俺は肩をすくめた。「いいんだぜ、邪魔して悪かったな」って言いたかった。

 廊下側の空いている窓から、風が吹き込む。うるさいくらいに鳴いている蝉の声も当然入ってくる。廊下はとても暑い、それなのに扇風機だけつけて彼は廊下でヴァイオリンを弾いている。ガサガサと、ぬるい風に合わせて足元のビラが散らばった。立ち並ぶクラブボックスの扉は全てオレンジ。飴色のヴァイオリンは、きっと高級なんだろう。

 彼の音色は枯れていて、渋く、芯があった。

 タ、ターとだけ音が鳴る。でもよく聞くと、一音じゃない。複数の音が同時に鳴っているのだ。ゥー、とコマが回るように何かの音が鳴っている。

 楽譜を見る、伏せられたまつ毛は長かった。瞳は黒くて、物憂げだった。きっと熱心な演奏家なのだろう、彼の首には、ヴァイオリンの肩当てのせいでできたアザがあった。まるでキスマークみたいだと思った。

――ま、いっか。

 俺はなんだってこんなに彼のことを凝視してしまったんだろう。何だか申し訳ない気持ちもするな。

「おーい、藤瀬」

 麻雀サークルのドアを開ければ、藤瀬がハンモックで眠っている。キャンプで使うポータブルハンモックを誰かが置いているのだ。

 まだ、アイツのヴァイオリンの、コマの鳴る音がする。

 開いた扉からまた窺うと、彼は熱心に楽譜に書き込みをしていた。まあ、いいか。

「藤瀬」

 呼びかければ「ううん……」と藤瀬は唸った。パタン、扉を閉める。扉越しにまた、鈍いヴァイオリンの音が聞こえていた。



「君は本当に勉強って、好きだねえ」

「好きでやってるわけじゃねえって。勉強が好きなやつなんていねえよ」

「そうだな、どちらかといえば、勉強を『盲信』してるんだ」

「『盲信』?」

「ああ、努力すれば報われる、ってやつ。勉強すれば幸せになれる、って思ってる。僕らみたいな受験戦士はみんなそう」

「努力もしてないお前は報われないと思うけどな」

「僕はコスパ重視なだけさ」

「ふーん……」

 もう何回教科書を読んだだろう。でも読んでも読んでも、知らないことだらけなんだ。医者になる、スペシャリストになる人間にとって、知らないことは一つでも減らした方がいい。愚直に、俺は暗記した。まとめノートも作った。

 一方で藤瀬は、ハンモックに揺られながら、片手でシケプリを掴み、ぼんやり眺めているだけ。時々寝落ちているらしく、腕がだらりと落ちるのを見た。

「なあ、腹減った」

 藤瀬が唐突に言った。

「どうだ、メシ行こう」

「ああ……うん、まあ。行くか」

 大体近くのラーメン屋か、定食屋か、学食か。そろそろルーチンも飽きてきたところだが。

 その時、またウ、ウーとあのヴァイオリンが唸った。

「あー、なあ藤瀬。あいつうちの学年のやつだっけ?」

「君覚えてないのか? 笠井だよ、笠井。笠井美良だ」

 そんなやつもいた気がする。

「なんだ、気になってるのか? じゃあ笠井もメシに誘おうぜ」

「お、おい」

 藤瀬はボックスから出て、呆気からんと彼に話しかけにいってしまった。廊下の突き当たりで二人は何やら話している。うん、とその『笠井』は頷き、ヴァイオリンを布で拭いて片付け始めた。きっと一緒にご飯へ行くことにしたのだろう。

 へー、笠井って言うんだ。いや、だからなんだって話なんだけどさ。気になってる女の子の名前を知ってしまったみたいに、胸がどうしてかバクバクするので、俺は努めて平静を装った。

 ヴァイオリンなんか、俺は引けねえわ。ピアノとかも知らないし、楽譜だって読めない。そもそも管弦楽団のやつってこう、育ちがいいんだよ。きっと実家もお金持ちの奴らばかりなんだろう。

 笠井の、青白いほどに抜けるような白い肌。薄い唇、憂いたような瞳。少し猫背気味にヴァイオリンを奏で、その音色に耳を澄ます姿は、瞑想をしている僧侶のようだった。

 こんなやつ、現実に存在するんだな。

 どうしてかそのことが許せないような気がした。でも許さざるを得ないくらいに、俺は打ちのめされていた。

「ど、どうも……私もいいかな?」

 藤瀬に手を引かれやってきた笠井が、俺に挨拶する。

 俺はただ一瞥し、何も言わなかった。簡単に受け入れられているなんて思ってほしくないのだ。

「私、輝きラーメンが食べたいな」

 笠井が呑気に話す。そっか、笠井、かあ。笠井って言うんだ……。

 まるで、世界の秘密を知ったような瞬間だった。


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