第5話
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前期の授業が全て終わり、夏休みが始まった。
部活もない。バイトもない。授業もない。
俺には何もない。
「なあ、なんかさ、何者かになりたいって気持ち、なかったか」
とある、ぬるい夜に俺はクラブボックスで藤瀬に尋ねた。部活に入っていない俺がなぜクラブボックスにいるのか。それは藤瀬が(やはり入っていない)麻雀サークルに入り浸っているからだ。そんな藤瀬に連れられて、悪い方の虎の穴に入ってしまった。藤瀬は相変わらずタバコをふかしながらパソコンでゲームをやったりして遊んでいる。俺は、勉強だ。
「何者か? っていうと?」
勉強に疲れたので、衒学的な問いも生まれよう。
「うーん、なんていうかさ、坂本龍馬みたいな」
「革命を起こしたい?」
「アキネーターかよ。例えだよ、例え。なんかさ、社会の歯車です、って。俺たち卒業して医者になるけどさ、それで何になるんだ?」
「医者じゃないの」
「ちげえよ、そういうことじゃない」
わかってるくせに、藤瀬は俺をからかっていた。めんどくさそうに藤瀬はタバコの火を消して、パソコンを閉じた。部屋にあるラジカセにCDを入れる。山のように積まれているそれは、軽音部の連中が集めた、インディーズのCDだ。正直俺にはよくわからなかった。
「僕だってよくわからない」
「そうか」
「そんなもんさ。でも君が言ったみたいな、過去形にするにはまだ早いんじゃないか? 30歳で花開く人もいれば、死後に作品が評価される芸術家だっている」
そうか、と俺は少し考えた。
俺は何になりたかったんだろう。
「……彼女欲しい」
「はぁ〜そういうことね」
藤瀬はテーブルに突っ伏して、俺の方を見た。丸メガネはよく見たら指紋でベタベタで白い。拭いてやる、と言ってメガネを外させ、その辺に転がっていた顕微鏡のレンズを拭くレンズペーパーで拭いてやった。
「すごい、世界が美しい」
「お前は彼女欲しくないのかよ」
みんなが浮ついた話をする中で、コイツだけが澄ました顔をしてやがる。いや、あんな汚部屋に住んでる時点で藤瀬が圏外なのは理解できる。行動も奇抜なのでだめだ。それでも同じ「彼女が欲しい」という願望を持つ人類であって欲しかった。そうじゃないと俺がいたたまれない。
「別に僕は興味ないかなあ……君だって彼女欲しいったって、要はセックスがしたいだけだろう?」
「セッ、セセッ……」
藤瀬が吹き出した。
「そんな反応してセックスの文字でさえ詰まるようなやつがセックスできると思ってるのか!」
「な、何回も言うなよ!」
いいかい、と藤瀬が前置きする。
「僕はね、とびきり素敵なセックスに憧れているんだ。心から愛する人とね、抱き合ってキスをして、つながり合って、愛情を感じたい。君がよく見てるようなエロ動画じゃない。パイズリなんてもってのほかだ。あれに女性側のメリットがあると思ってるのか!?」
「パ、パイズリだっていいじゃねえか! エ、エロいし……いやそうじゃなくてな。ふーん、お前ってそう言う憧れは一応あるんだ」
奇人から性欲の断片を感じて、俺は満足した。ってことは、こいつだって「何者かになりたい」って感じてる。彼女が欲しいこととそれがなぜ繋がるのかは俺にも理解できない、しかしそうに違いない。
彼女が欲しいなんて生物としての上昇志向を抱く奴は、多かれ少なかれ「勝ちたい」という思いがあるはずなのだ。
「教授でも目指せばどう?」
「ガラじゃない」
「じゃあ何か、新薬を作ろう。がんとかに効くやつ。きっと名を残せるぞ」
「……そうだな。それがいいかもしれない」
教授より現実的な選択肢に思えた。教授になるって言うのはコネを使うものだ。人的資源を使うものは、俺には向いてない。あちらこちらにいい顔をする八方美人にはなれないからだ。
「藤瀬はどんな医者になるんだ」
「なんだ、君怖いぞ。勉強しすぎて疲れたんじゃないか? 麻雀やる?」
「俺役わかんねえし二人しかいねえだろうが。ちょっと興味が出たんだよ、お前について」
知りたくもねえけどな、と付け加えた。藤瀬に対してこういう態度を取ることは、少しだけ憚られた。ツンデレというべき態度かもしれない。藤瀬に弱みを握られたくない。
「うーんと……僕はさ、あんまり人間のこと興味ないんだよね」
茶化すのをやめた藤瀬は、ラジカセのヴォリュームを落とし、再びタバコに火をつけた。
「人間……人間は好きだけど、どこの筋肉がどうとか、腫瘍とか、抗がん剤はこれ使うとか……治したいって気持ちがないのかも」
「じゃあなんで医学部入ったんだよ」
「両親が医者だし、うちの医院を継がなきゃいけないからだよ。それじゃ悪い?」
俺みたいに。俺みたいに、医者になって誰かのためになりたいって気持ちじゃない奴が、いる。しかもそれが、自分の友人だった。
浅はかだって言われるかもしれない動機も、俺にとっては十分大きなものだった。その分勉強もした。辛かったけど、頑張った。だって、夢があったから。
でも藤瀬にはその「夢」がないんだという。そんなの、信じられないとかじゃなくて、信じたくないじゃないか。
「あんまり興味ないし、でも実家、精神科だから。精神科行くしかないよ」
藤瀬は肩をすくめた。
「『何者かになりたい』っていうけどね。そう思えてる時点で、僕には、十分カッコ良く見えるよ、華岡」
勝ちたい。負けたくない。
お金を稼ぎたい。名声を得たい。名誉に輝きたい。
そんな思いを抱きながら、こうして広大なキャンパスの一角で静かに教科書を読む。
そんな、負け組の俺もかっこいいんだろうか。時々、藤瀬の言うことは、ゾッとする。
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