『七夕』は代表作になった

一野 蕾

【ネズミの尾を掴む】


 コンクリートの無骨な壁の隅に、ウシの絵が描かれていた。


 それを目に留めた男は「ハァ」とため息をこぼす。これを見つけるのももう幾度目だ。

 胸元から無線機を取り外す。


「一丁目で『ネズミ』の絵を発見。……まだ新しいようです」


 デジタル調に歪んだ声で引き続き近辺を見回れ、との指示が返ってきた。手短なやり取りで通電は終了し、男は絵を撮影するだけして立ち上がった。懐中電灯を携え、ウシの絵の前を通り過ぎる。


 ここ数年、日本国内で盛んな活動を見せているストリートアーティストがいる。たった一晩、時には人足が遠のいた一瞬の隙に建造物にアートを施し、姿を消す。そこに残される絵の特徴的なタッチとメッセージ性を感じさせる構図やモデルから、SNSを中心に話題になっているのである。しかし当然その活動自体は違法で、軽犯罪法の諸々に違反することから警察に追われている。がしかし、いまだにその尻尾を捕まえるには至っていない。集団か個人か――一度、現場から複数人が走り去るところを目撃されていて、警察は集団だとにらんでいるが、それも判然とはしていない。

 日本警察に対してアンチ的な一部の市民はこの状況を見て、彼らがよく描き残すウシの絵は警察を揶揄しているのでは。と推測し、彼らを『ネズミ』と呼称している。ネズミとウシ。十二支の伝承になぞらえたものだ。


「ウシの歩みってか。バカにしやがって……」


 男はちっ、とやる気のない舌打ちをした。

 特にネズミを捜すあてもなく、アーケード商店街に入り込んだ。閉ざされたシャッターが壁のように並び、革靴の足音を反響させる。点々と立ち並ぶポールが懐中電灯の光を切り取るが、頭上を覆うアーチ状の屋根から差し込む月明りのおかげでそう暗くはなかった。とはいえ、日中の賑わいを知っている男は、ここに立ち込める寂しさに思わず歩調を緩めた。ただでさえ今日は七夕にかこつけた催しごとが行われていたので、行き交う人々で混雑していたのだ。所々のポールに括りつけられた竹には、願いごとを綴った短冊が無数に吊るされている。

 風もなく、鳴く鳥もおらず、人のいない商店街は水の底のように静かだった。


 緩慢な――まさに牛の如き歩みで、アーケード街の脇道に出る。こちらも静かだったが、夜空をすっかり覆い隠す屋根がなくなり解放的だった。近所に建つアパートやマンションの窓から明かりが漏れていて、人の気配も感じられた。

 こんな夜更けに仕事をしていると、人が恋しくなるものなのである。


「ア」


 そんなときに出会う人間なら、誰でもいいという訳ではないのだが。


 建物同士の隙間に、工事用の足場が組み上がっていたので、なんとはなしに明かりを向けてみた。ずんぐり黒ずんだそこに鈍色でスチールかアルミの足場が浮かび上がったのだが、そこに人の姿もあった。照らし出されたことで相手方も男の存在に気が付いたらしく、「わ」と一瞬目元に腕をかざした。目深まぶかに被ったフードと、その面前にあるに、人恋しさを感じていた男は一人の警察官へと戻された。


「久々だな。ネズミ」


 眩しそうにしている『ネズミ』から明かりを逸らしてやると、はたと顔を上げ立ち上がった。


「あ、お巡りさんだ」


 ひょろりと長い体躯を足場の上段から乗り出し、呑気にも手を振ってくる。

 実は警察官の男とネズミの一人このふたりは、初対面ではない。

 ある年のある日、この日のように夜更けの見回り中、男はネズミの犯行現場に偶然通りかかった。手引する者がいたのか、惜しくも捕らえることは叶わず、男はいつか必ず手錠をかけてやるとひそかに息巻いていたのだが……二人はその後幾度となく出会い、その度ネズミはまんまと逃げおおせている。発見したときには毎度無線を入れていた男も、二度、三度と続けばいちいち報告しなくなった。捕まえられたなら事後報告でいいし、逃げられたなら絵を見つけたとだけ伝えればいいのだ。

 男は必要分の職務は全うするタイプのめんどくさがりだった。


「一丁目でも絵を見たぞ。描いたのはお前だな?」


 懐中電灯を腰に戻し、じり、と足場へにじり寄る。


「え、あれ見たの? あれ上手くいかなかったやつだから見ないでほしかった」

「じゃあ消せよ」


 足をかけた階段が軽い音を立てた。


「何度も言うけどな、お前らのやってることは建造物損壊罪にあたるんだよ。芸術だかなんだか知らないが、そういうのはちゃんとしたキャンバスに描くべきだ」

「それ以上ごちゃごちゃ言うならペンキ落とす」

「……。」


 頭上を仰いだ矢先、隙間をポタリと質量のあるものが滴り落ちてきた。足元に小さな水溜まりを作った目の冴えるような青色は、この夜闇の中でもなぜだかはっきりと見えた。ああ、足場が汚れたな……と心中独りごちたが、覗き込む目線が外された気配がしたので、続けて上ることを選んだ。

 タン、タン、と規則的な足音はフードの奥にしまわれたネズミの耳にも届いていただろうが、かくしてネズミはそこに突っ立っていた。

「逃げないのか」と喉の奥まで出かかって、やめておく。それを言えばまたネズミはチュウチュウと鳴きながらどこかへと失せてしまうだろう。

 袖が汚れた灰色のパーカーを身にまとうネズミの、薄く広い背中を眺める。身長に見合った長い腕はしきりに動き、手にした刷毛はけで壁面に作品を描き続けている。仮にも本職の警察官が背後にいるというのに、本当に呑気なものである。

 毒気を抜かれ切った男は腕を組み、ネズミのそばへと近寄った。


「あのウシ、可愛くもカッコよくもなかったでしょ。だから描くのやめたんだよね。塗りつぶしちゃおうかとも思ったんだけど……今日はあんまり道具持って来てなかったから、諦めたんだ」


 こちら側に尻を向けているウシの絵を思い出す。リアリティと独自の解釈を織り交ぜたネズミ特有の描画は一目で分かったものの、可愛いだとかカッコいいだとかは男にはピンとこなかった。キャラクターならともかく。確かに絵自体は上手いなーとは思うが。


「……お巡りさんあんまり分かってない?」


 図星をつかれた。


「あの絵見て、なに思った?」

「別になにも」

「ほら。やっぱりダメだ。お巡りさん相手になにも伝わらないならやっぱりダメだったんだよ、あれは。パッションが宿ってこその絵なんだから」

「それがお前ネズミのポリシーか?」

「うん? なに言ってるか分かんねー」


 内心舌を打つ。このネズミ、他の仲間、協力者のことに探りを入れると途端にはぐらかすのである。


「そもそもウシの絵でなにを伝えようって言うんだ。〝無能な警察組織へ〟とかか」

「そんな攻撃的な意味込めてない。というかそれ迷信だからね。ウシが警察の隠喩とか。騙されないでよ」

「お前らが毎回考察余地のある落書きばっかするからだろ。迷信だろうと、不特定多数が信じればそれはもう真実なんだよ」

「あーあ、やだやだ。こんなに精力的に活動しても三分の一も伝わんないんだから。次の題材はそれにしよっと。タイトルは『純情な感情』で」

「パクリだろ」

「オマージュだよ。インスパイア作品」


 次回の犯行予告をさらりと受け流してしまったのは対峙することへの慣れがそうさせたのであって、決して容認したわけではない。

 この間も休むことなく動かされていた筆が、ようやく壁からネズミの腹部へと移動する。


「うん……。イイね。できた。完成」

「……今日は一体、どんなパッションを込めたんだ」


 両腕をだらんと垂らしたネズミが横にずれ、男がそのスペースに足を踏み入れる。絵を描くための必要最低限に抑えられた画材が積まれているその真横で、男は眼球にインクの圧力を受けた。


 宇宙の基本の色は黒であり、材質は闇である。そのようなことを、いつだったかこのひょろ長いネズミが勝手に話してきたことがある。これまで『ネズミ』は空や宇宙を題材にいくつか作品を作っているが、今回のこれは従来のものとは違っているように思えた。不本意にもネズミの作品を追い続けている者として、男はそう確信したのだった。


 そこにあったのは圧倒的な青の宇宙だった。

 ブラックホールに通じていそうな深く暗い青の上に、日が昇ったばかりの空のようなさわやかな青があるかと思えば、沖縄の海に似た鮮やかな青も浮かんでいる。そしてその上――時には下に――限りなく白に近い青がぽつぽつと点を打たれている。男は光の三原色の図を想起する。色が複数重なって、究極白に近づくというものだ。よく目を凝らしてみれば、その青は同じ位置に他の色を先に置いて、光がピンボケしたように見せる演出をされているのだった。さらに見ると、それの一つ一つはただの点だけではなく、四方に棘を伸ばした、きらめきのエフェクトのような形をしているものも混じっていた。

 それがつまり星を表しているのだと、芸術や絵に明るくない男でも理解できた。


「タイトルはね。『七夕』」


 ネズミがチュウと低音を囁いた。


「……じゃあ、これは天の川か」

「そ。正解!」


 星の光を模した青は無秩序に散らばっているわけではなく、一方向に流れる川の様相をなしている。

 男と肩を並べたネズミは、男よりほんの少し高い位置にある頭を俯けた。


「今日って、実は七月七日じゃん。七夕。織姫と彦星」

「そうだな。……それでこれを? 時期的なコンセプトは珍しくないか」


 男が『七夕』からネズミの方へと目を移すと、二人の目線がバチリとぶつかった。フードの下でネズミが笑う。


「くふ。ワタシの傾向に詳しいね」

「笑い方キモいな」

「あ、最低。それが彦星に対する態度かよ」

「誰が彦星だって?」

「あ、彦星なのはお巡りさんの方か。なんせ彦星はだもんね」


 やっぱり警察はウシなんじゃねぇか、と思ったが、頭の中に疑問がひしめいていてそれが真っ先に口から出てくることはなかった。


「おれが彦星? じゃあ、お前は織姫だとでも?」

「それはどっちがどっちでもいいけど。つまりはさ、ちょっと似てるじゃんってこと。一年に一回しか会えない星と、ワタシたち。たまに会ってはすぐに別れて。いつも同じシチュエーションで遭遇しててさ。まさに七夕な関係だよね」

「……ロマンチスト……」

「今、バカにした? 芸術家はみんな多少ロマンチストなんだよ。サプライズ大好き!」


 歯をむき出しにして威嚇するネズミの、長い前髪の下に隠された目が少し見えた。それほどに二人の距離が物理的に近くにあったのだった。くっついてしまうほど近距離だったわけではないが、男は「ふ」と鼻息でネズミの前髪をくすぐるようにほくそ笑んだ。


「芸術家ってやつは、告白にもコンセプトだの題材だのが必要なのか? しかも微妙なミスマッチ具合。七夕に例えるにはエピソードが足りないだろ。毎日きちんと仕事してるおれと、軽犯罪者のお前。おれは依然働き者のままだけど、お前はずっとろくでなしだろうが」

「は? ワタシにとってはこれが仕事みたいなもんだし」

「みたいなもん、じゃダメなんだよ仕事っていうのは」

「逮捕しようともせず、告白されてるくせに」

「隙があればそうしてるよっ」


 ガチャ、と金属の音がした。ん、と首を傾げたネズミが下を向く。筆を握ったままの手首に、手錠がはめられていた。


「よし。逮捕」

「は、――はああ!?」


 そこからは早業で、残されていたもう片方の手首もすぐに金属の輪の中へと収められてしまった。突然奪われた自由にネズミが喚く。喚くネズミの首根っこを掴み、男は軽やかな足取りで足場を下って行った。


「さいてい! 最低! あの作品見てなんも思わなかったの? この堅物め。ハッキリ言おうか、お巡りさんのために描いたんだよアレ! お巡りさんに見せたくて! 描いたの!」


「ああ嬉しい嬉しい。嬉し涙で天の川ができそうだ」


「天の川あったら会えないじゃん! ただでさえ会う機会少ないのに、これ以上離れてどうすんだよっ。これだからウシは……!」


「やっぱウシなんじゃねぇか。……それよか、バカだなお前。居場所がハッキリしてる方が会いに行きやすいだろ」


「えっ」









『『七夕』は代表作になった』/終

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