4−1

 小さな嘘はバレる。最後まで騙し切る覚悟があるなら嘘は大きいほうがいい。標準的な脳の持ち主はすぐにバレるような嘘はつかない。だから嘘にしか思えない話を聞くと逆に嘘ではないと思ってしまう。そんなあからさまな嘘をつくはずがない、世の中にそんな嘘を平気でつく奴なんかいない、と。


 そんな思考は哲也の理解の範囲外だ。あいつらは小さな嘘は平気でつくくせに、大きな嘘をつくような人間はいないと勝手に思い込んでいる。世の中は自分の理解できる範疇に収まっていると思い込んでいるのだ。自分たちが知っている世界がこの世の真実だと思い込んでいるのだ。


 人間の思考などたまたま生存と繁殖に有利に働く性質が自然選択の結果残っただけだ。集団を円滑に維持するのに小さな嘘は役に立ち、大きな嘘は集団で作業するときの支障になった。それだけのことだ。人間の摂理なんて高尚なものでもなんでもない。たまたまそういう生存・繁殖戦略を採った個体が多く生き残っただけだ。もっと正確に言えば、偶然環境に合致した遺伝子を持って生まれた個体が生き残って子孫を残しただけだ。


 だから、あからさまな嘘をつく人間なんていないと思い込んでいる人間を騙して利用する、という方法で生き延び子孫を残す個体がいてもなんらおかしくはないのだ。良いも悪いもない。現に哲也のような人間がこうして存在しているのだから、生存と繁殖に有用な性質だったというだけだ。


 物心ついたときから、哲也は自分が他の人間とは異なっていると自覚していた。それと同時に、それを他の人間に悟られてはいけないということも本能的に知っていた。だから、これまで哲也の本性に気付いた人間は一人しかいない。哲也が小学校に入ったばかりのことだと思う。哲也は、雑多な機械に囲まれた椅子に座らされ、電気コードがたくさん繋がった帽子を被せられ、いろいろな質問に答えたり見た絵の感想を訊かれたりしている自分の姿を思い浮かべることができる。自分の姿が見えるのは、記憶に基づいて脳内で再構成された映像だからだろう。哲也には、そこがどこなのか、研究だったのか治療だったのか、全く分からない。しかしそこにはいつも決まった男の姿があった。哲也は、ある時その男が助手らしきもう一人の男に言った言葉を憶えている。


「この子はね、サイコパスなんだよ」


        * * *


 哲也が在籍しているのはマウスやキーボード、イヤホンなどのIT用品の販売会社だ。最近では自社開発製品も販売している。社長が行商に近いところから始めて、この一〇年で急成長した会社だった。


 商売の規模が小さかった頃は、販売管理と言っても大学ノートに販売記録を付けるだけで充分だった。どうせ書くのも見るのも社長一人だったからだ。哲也がここに入社したとき、会社の歴史を学ぶ一環としてそれらノートを見せられたことがある。

 やがて取引が増えてくると大学ノートでは管理し切れなくなった。それでコンピュータで管理するようになった。とは言っても、パソコンにインストールした表計算ソフトを使うだけだった。それでも紙での管理に比べたら格段に効率的になった。簡単な集計くらいなら自動でできるようにもなった。

 しかし売上が数十億に達するほど会社が成長すると、表計算ソフトでの管理も限界を迎えた。そこで会社はアプリケーションソフト開発のためにソフトウェア会社から三人を中途採用し、事務管理部の中にシステム開発チームを作った。哲也はそのとき採用された三人のうちの一人だ。あとの二人は藤山聡太と若林太郎。聡太は三二歳で三〇歳の哲也と同年代だが、若林は四〇歳と他の二人より一回り年長だった。それもあって当初プロジェクトは若林をリーダーにして進められた。


 コンピュータシステムの開発において一番大切で一番難しいのは要件定義だ。要件定義とは、何を作るか決めることである。

 そう聞くと意外に思う人間もいるかもしれない。販売管理システムを作るというのはそれまで手作業で行っていたことをコンピュータプログラムに置き換えるだけなのだから、何をするかは決まっていて、それをどうコンピュータ化するかが難しいのではないかと思いがちだ。

 ところが話はそう簡単ではない。表計算ソフトの場合、各人が自分流の使い方をすることができる。しかし専用のシステムを作るのであれば、決まったやり方に決めなければならない。当然みんな自分のやり方が一番優れていると思っているし、自分のやり方が採用されれば自分の仕事のやり方を変えなくて済む。関係者の利害を調整しながら一つのやり方に絞っていくところから始めなければならない。

 また、人間の行動の九七パーセントは無意識のうちにしているという説もあるくらいで、実はいつもやってることを言葉にして説明するというのは意外に難しいのだ。結局プログラミングというのはプロセスをコンピュータ言語という言葉で記述することに他ならないので、現場で行われていること全てを書き出してプログラムにするというのは至難の技なのだ。


 だからコンピュータシステムの開発というのは一般的なイメージと違って、論理的思考のような理系的な能力よりも、関係者間の調整や非協力的な人間との駆け引き、さらには頭の中を言語化するのを助けるようなヒヤリングなど、実に人間的な泥臭い能力が求められるのだ。

 若林は優秀なエンジニアではあったが、残念なことに(哲也にとっては幸いなことに)非論理的な人間を相手に上手く立ち回れるようなタイプではなかった。プロジェクトはどのようなシステムを作るかを決めるという最初の段階から大幅に遅延した。


        * * *


「このままだとプロジェクトの成功は覚束ない、と直接社長に伝えようと思うんだ」

 哲也は聡太を会議室に呼び出し、切り出した。


「若林さん抜きでってことだよな」

 聡太は哲也の意図をすぐに察したようだ。

「あまり気は進まないけど……」

 案の定、聡太は若林に気を使って躊躇する素振りを見せた。

「じゃあ聡太はこのままでいいと思うのか?」

 哲也は机に上半身を乗り出して聡太に詰め寄った。

「いや、このままじゃマズいとは思うよ」

「そうだろう? 手遅れになる前に手を打たないと」

「まずは若林さんと話すのがスジじゃないか」

「なに言ってんだよ。これまでずっと問題を隠蔽してきてるんだぞ。若林がそんなこと社長に報告するはずないだろうが」

「隠蔽って……でもコトの重大さを理解してない可能性はあるかもな」

「そうだよ。あいつはプログラム書く才能はあると思うけど、コミュニケーションとか無理だよ。ユーザーからリクエスト聞き出すとか」

「それは僕もそう思うけど……」

「社長に若林の悪口を言うつもりはないんだ。プログラマーとしては優秀だってことは認めたうえで、ユーザーとの折衝は得意そうじゃないから、俺がそこを担当すると提案するんだ」

「だったら今のままで哲也がユーザー対応すればいいじゃないか」

「若林が的外れな指示をしてきたらかなわない。若林と俺を対等な別チームにしてもらうんだ」

「要件定義チームとプログラミングチームか?」

「そうだ。聡太も独立したチームとしてプロジェクトリスクを管理する」

「三人バラバラにやるってことだな」

「そうだ。どうせ三人しかいないんだ。そんなところに指揮命令系統なんか要らないさ」

 聡太はしばらく考え込んでいたが、やがて顔を上げて言った。

「若林さんもそのほうがやりやすいかもしれないな。本音ではプログラムだけ書いてたいんだろうからな」

「そうだよ。それじゃ聡太は今のプロジェクトの状況と完了見込みがほとんど無いのを説明してくれ。俺は立て直しプランを説明するから」

「分かった。資料を作るから来週でいいか?」

「俺も資料を作らないといけないから、再来週にしよう」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る