3−4

 惣三郎は平潟湾の中を帰帆橋に向かってヨットを走らせていた。

 大抵は辺境の地にあってクルマでしか行けないマリーナが多いなか、金沢八景駅のすぐ目の前にあるこの泊地はすこぶる便利だが、出入港するには平潟湾から東京湾に出る水路に架かる橋の下をくぐる必要がある。よってここに係留されているヨットは起倒式マストと言って、橋の下をくぐろうとすると橋桁に引っ掛かってしまうマストを簡単に倒したり起こしたりできるように工夫されている。

 惣三郎は便利屋であって専門のマリン業者ではないが、趣味がヨットなのでヨットに関する仕事の依頼も多い。今も平潟湾に新しく係留することになったヨットのマストを起倒式に改造する仕事を終わらせて帰るところなのだ。


 シーサイドラインの下を通って左に転針すると東京湾に出る水路で、そこに架かる橋が帰帆橋だ。惣三郎がヨットを転針させるためにティラーを軽く押し始めたとき、惣三郎の後ろからモーターボートが白波を立てて近づいてきた。モーターボートとしては徐行のつもりなのだろうが、港内としては少しスピードを出しすぎているように惣三郎は思った。だが自分は他所者であり、文句を言うのも面倒くさい。追い越されるときに来るであろう曳波に注意しなければと思いながらモーターボートを注視していたら、海沿いを走る道路からバイクが海上に飛び出してきて、バイクから放り出されたライダーがモーターボートの針路上に落ちた。いったん海中に沈んだライダーはすぐに頭を海面に出したが、その上をモーターボートが通過していった。ライダーはモーターボートの下に沈み込み、スターンからはじき出されるように海面に浮かんだ。プロペラに巻き込まれたのだ。


 惣三郎はすぐにティラーを大きく押してヨットを反転させ、海面に俯せになって浮かんでいる落水者のところに向かった。モーターボートも急旋回して戻ってきた。

 遅いヨットの惣三郎が着いたときには既にモーターボートが落水者の傍にいたが、船長はパニックを起こしてオロオロするばかりで何もしていなかった。惣三郎はセオリーどおり落水者の風下からゆっくりとヨットを近付けた。ヨットのバウが当たるくらいまで近くに寄せたが、落水者はぴくりとも動かない。腕も脚もプロペラに引き裂かれ千切れそうな状態で波間に揺れていて、海面が血で赤く染まっている。ヨットの高いガンネルから引き上げるのは難しそうだ。引っ張り上げている最中に身体がバラバラになりかねない。モーターボートのほうがまだマシだが、それでも海面からガンネルまで一メートル近く持ち上げなければならない。惣三郎がどうしようかと思案していると、モーターボートにゴムボートが積まれているのに気が付いた。


「おーい、そのゴムボートに落水者を乗せろ! 海面から持ち上げなくて済む」


 惣三郎がモーターボートの船長に向かって叫んだ。それまでオロオロしていた船長だったが、やることを指示されたことで落ち着きを取り戻したのか、即座に同乗者にモーターボートの舵を任せ、自らゴムボートを海面に下ろして乗り込む。ゴムボートに備え付けの小さなオールを使ってゆっくり落水者に近づき、ゴムボートの縁を滑らせて落水者を引っ張り上げた。


「桟橋まで曳航するからこれをバウに結びつけろ!」


 惣三郎はロープをゴムボートに向かって放り投げた。船長はそれを受け取ってゴムボートのバウに付いているリングに結びつけた。惣三郎はゆっくり慎重にヨットを走らせ、ゴムボートを桟橋まで引っ張っていった。

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