3−2
眠れないからといって酒を飲むのはよくないと言われる。寝付けるかもしれないが、眠りが浅くなってすぐに目覚めてしまうからだ。聡太も三〇分ぐらいで目が覚めてしまった。頭痛と吐き気がする。トイレで胃の中を空にして少し落ち着いたら、投稿のことを思い出した。
電源が入ったままのパソコンの画面上には、聡太の期待に反して、相変わらず大量のメッセージが流れている。むしろ増えているくらいだ。聡太はそれらを目で追って驚愕した。量にではなく、内容にだ。
ーー追加情報。殺人犯が脱走したのは都内某拘置所。
そんなバカな。聡太は何処かの拘置所を指し示すような情報は一切発信していない。誰かがデタラメの情報を流したのだ。いや、そもそもがデタラメなのだが。
ーー警視庁に問い合わせた。脱走犯は世田谷を逃走中。看守から奪った拳銃を持ってるらしい。
ーー刑務官は普通、拳銃携帯してないはず。
ーーすまん。武器と言われたんで拳銃かと思った。調べたら警棒か催涙スプレーだな。
ーー俺も情報入手。四十代の男。身長は一七〇センチくらい。髪型は丸刈り。右の頬に傷痕あり。
ーー脱走犯は衣料スーパーに押し入って衣服を強奪。収監服を脱ぎ捨てて、赤いサマーセーターにベージュのチノパンに着替えた模様。注意されたし。
そんな男がいるはずないのだ。
聡太と関係なく架空の男の情報が積み重なっていく。止めなくてはと思うが、今更あれは嘘でしたと白状したときの反応が怖い。
大丈夫だ。そもそも存在しない人間のことなのだから、問題になることもないだろう。誰かの名誉を毀損しているわけじゃない。
警察に問い合わせが殺到していたら困ったことになるが、動物園ほど気軽に問い合わせられるものでもないだろう。
いや待てよ、もし本当に警察に問い合わせたならすぐに嘘だと分かるはずだ。そうか、みんなも分かったうえで、想像上の犯人を作って遊んでいるに違いない。聡太は自分にそう言い聞かせた。
ーー蒲田駅前で目撃情報あり。世田谷から大田区に移動した模様。
目撃情報? そんなはずない。いない人間なんだから。なかなか凝ったお遊びだな。聡太は取り返しのつかないことになりそうな予感から目をそらした。
これは遊びなんだ。
これは遊びなんだ。
これは遊びなんだ。
聡太はグラスに残っていたウィスキーを一気に呷った。
* * *
ーー赤いサマーセーターにベージュのチノパンの男、蒲田駅の改札で見た。
ーー京浜東北線横浜方面車内。男を発見。監視を続ける。
ーー気をつけろよ。
ーー俺、黒帯だから。警棒や催涙スプレーなら対処可能。拳銃には負けるが。
なかなか凝ってるじゃないか。聡太はネット界隈に詳しくないが、心霊スポット突撃実況スレというものがあるらしい。心霊スポットを訪れて、生配信で中継するものだ。もちろんそれなりの演出はするから、一〇〇パーセントドキュメンタリーとは言い難い。きっとそういうノリで盛り上がっているのだろう。
ーー男は新杉田で降車。俺は大船に行くので離脱。後は頼む。
そこでいったん投稿が途切れた。しかし五分もしないうちに新たなメッセージが届く。しかも写真つきだ。
ーープラムロードで男発見。
赤いサマーセーターにベージュのチノパンで商店街を歩く男の後ろ姿。プラムロードとは、JRの新杉田駅と京浜急行の杉田駅を結ぶ商店街の名称だったと思う。
それにしてもこの男の画像は合成? そんな面倒くさいこと……しかもこの短時間に? もしそうでないとしたら……
ーー男は京急に乗る模様。誰か後を頼む。
メッセージには、京浜急行杉田駅の改札を入っていく男の後ろ姿を写した画像が添付されている。
ーーターゲット発見。ワイの乗ってる車両に乗ってきた。ワイは黒帯じゃないから、気づかれないように監視する。
ーー気をつけろよ。
ーー11:24杉田発の三崎口行きか?
ーーそう。
ーー何両目だ?
ーー前から三両目。
ーーこれから応援に行く。俺も乗ってるから。
ーー頼む。
ーースゲェ! 包囲網ができるんじゃね?
ーーオレも今、京急沿い。行きたい!
ーー合流。二人で監視中。降りるときにまた知らせる。
そこからまたしばらく投稿中断。実況が始まってから投稿の頻度は減っていた。余計な投稿はせずに成り行きを見守ろうというのだろう。
ーー金沢八景で降りた。尾行中。
四車線道路の歩道を歩く男の後ろ姿を写した画像が添付されている。国道一六号だろう。
聡太にはそこがどこかすぐに分かった。何故なら聡太は毎日そこを通っているからだ。聡太の住むアパートから最寄りの金沢八景駅まで出るのに使う道なのだ。
ーーウチの近くだ。合流するから写真つきで実況続けるように希望。
聡太の他にもこの近くの人間がいるらしい。
何枚か画像だけの投稿が続いた。全て国道一六号で撮ったもので、聡太の知った場所ばかりだった。
ーーファミレスに入った。
バス通りにもなっている環状四号と国道一六号とのT字路を越えた先にあるファミレスの画像が貼り付けてある。最近増えてきた低価格ファミレスチェーンのデニーゼリアだ。聡太も会社帰りによく立ち寄る店だ。
ーー警察に通報したほうがよくないか?
ーーなに言ってんだ? 警察なんてアテになるか。こんな重大事件なのに何でニュースになってないか考えたか? 警察が隠蔽してんだよ。下手に通報なんてしたらオマエが消されるぜ。
そもそもそんな事件起きていないのだから、ニュースになるはずがない。冗談なのか本気なのか、聡太には見分けがつかない。
ーーオレもそう思う。
ーそうだ、そうだ。警察なんてアテにならん!
分かっていてわざと盛り上がっているならいいのだが、本気で信じている人間がいたとしたら……
ーーデニーゼリア金沢八景店に集まれる奴いる? バットでも何でも武装して来い。店に着いても固まらずに店の外でバラバラに待機。
ーーもう家出た。
ーー行ける。
ーーオレも。
あっと言う間に一〇人以上が集まった。
お遊びだよな? 赤いサマーセーターの男だって偽物だよな? 投稿者の仲間だろ?
まさか全然関係ない人間を襲おうとしてるわけじゃないよな……脱走した凶悪犯なんていないんだよ。僕のでっちあげなんだ。デタラメなんだ。その男は凶悪犯のハズがないんだ。
なんとかしなけりゃ。
なんとかしなけりゃ。
のんとかしなけりゃ。
最初の投稿が嘘でしたと告白すればいいのは分かっている。
ーーすまん。凶悪犯が逃げたなんて嘘だったんだ。その男は凶悪犯なんかじゃない。遊びの時間は終わりだ。解散、解散。
聡太はそう打ち込んで投稿ボタンをクリックしようとしたが、ここまで話が大きくなってしまった今、とても無事では済まないという不安に負けて、メッセージを削除した。代わりに他人の振りをして投稿した。
ーーそれって本当に凶悪犯か? 人違いだったら大変だぞ。
あっと言う間に返信が殺到した。
ーーバカか? コレまでどれだけ情報が集まったと思ってるんだ?
ーーネット民の力をみくびるなよ。
ーーフェイクを書き込んだ奴がいるとでも言うのか? そんな奴がいたら、そいつこそ成敗だ!
ここしばらくペースの落ちていたメッセージの流れがひととき速くなった。しかしそれもすぐに落ち着いた。
ーーバカはほっとけ。そろそろ食い終わって出てくるぞ。
ーー出てきたらやるか?
ーーいや、ここじゃマズいだろ。
ーーみんな素知らぬ顔で奴を尾行しろ。
僕は止めたからな。止めたけど聞かなかった奴らが悪いんだからな。
僕のせいじゃない。
僕のせいじゃない。
僕のせいじゃない。
* * *
ーー環状四号を朝比奈に向かってる。みんなバラけて歩いてるからヤツには気づかれてない。
ーーどこでやる?
ーーどこかで脇道に入るだろうから、そこでカタをつける。
男とその尾行者たちは聡太のアパートに近づいてきている。偶然なのだろうか? もちろん偶然に決まっている。
ーー脇道に入ったぞ。
メッセージに添付された画像を見て聡太は叫びそうになった。毎朝会社に行くとき環状四号に出るために曲がり、毎晩会社から帰ってくるときあと少しで家に着くと思いながら曲がる角だったからだ。
何故だ? そんな偶然があるのか? 実はあの投稿は僕がしたフェイクだとみんな知っているとでも言うのか? それで僕を驚かせるために?
いや、むしろそれだったらどんなにいいことか。僕の偽の情報で近所の人間がリンチされる結末を見るくらいなら、僕が恥を書くだけですむドッキリであって欲しい。
聡太は急いで窓のカーテンを閉め、端を少しだけめくって外の様子を伺う。環状四号に向かう道の向こうから赤いサマーセーターとベージュのチノパンの男が歩いてくるのが見えた。知人ではないが、近所に住んでいるらしく時々道で擦れ違うので顔は知っている。服装は投稿の通りだが、顔に傷痕なんかない。みんな背中からしか見てないのか?
少し離れた後ろには、お互いに他人の振りをしてバラバラに後を付けてくる者たちがいた。
やがて男が聡太のアパートの前に差し掛かった。そのとき、後を付けてきていた者の一人がバットを振りかざして男に襲いかかった。異変に気付いた男が振り向いてすぐに飛び退いたので、振り下ろされたバットは男の頭をかすめて地面を叩いた。
それを合図に他の者たちがいっせいに男にとびかかった。今度は男も避けることができず、地面に引き倒された。
男の手足にそれぞれ一人ずつ取り付いて押さえつけているので、男は地面から起き上がることができないでいる。その頭を目がけて、最初に男に襲いかかった奴がバットを振り下ろした。男の頭蓋骨にバットがめり込む。バットが持ち上げられて頭蓋骨から離れると、血が吹き出した。
その血を見て興奮したのか、皆が次々に男に暴力を加えていく。男の全身が見る見る赤く染まってゆき、手足はあらぬ方向に捻れた。男が全く動かなくなっても暴力はやまず、全員が興奮から醒めて男から離れたときには、そこに横たわっているものが人間だとはにわかに信じがたい有り様になっていた。
その間、聡太は声を出さないように口を押えて見ているだけだった。助けに行こうなどという考えは全く浮かばず、自分が見ていることに気づかれたら殺されるという恐怖で動くことさえできなかった。
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