10



 ──……


 跳ねる泥も厭わずに、濡れた地を走る。


(……ユークの血を、吸ってしまうところだった)


 胸がくるしい。上手く呼吸ができない。


(突然、自分が分からなくなって。ユークが名前を呼んでくれなかったら、私は……)


 目的地があるわけではない。ただ、今はユークから距離を取らなければという思いに突き動かされていた。


 どれくらい走っていただろうか。雨足は心なしか弱まっているものの、太陽の姿はまだ見えない。濡れた草木のむせ返るような匂いに、気分が悪くなった。


 これからどうすればいいのか分からない。


(……正体も、バレちゃった……)


 走るのをやめて、歩みに変える。


(でも、リーヴェンの近くに死印がある以上、放ってはおけない。家には帰れないから、どこか別の拠点を探して……)


 今後の計画を考え始めたそのとき、心身の疲れで霞む視界にある姿を捉えた。


 丘の上に、ラベンダーのドレスを着た女が佇んでいる。雨雲を背に傘をさし、じっとこちらを見つめていた。


「もう少ししたら、わたくしからお会いしに行こうと思っていたのですよ」


 優雅な微笑み。風に揺れるミルクティ色の髪は、彼女によく似合っている。


 ──あぁ、この人なら。


 リディアはあんな風に優雅に笑えなかったけれど、それでもなんとか口角を上げてみせた。


「……それ、日傘じゃなかった?」


「晴雨兼用なんですの」


 女は傘をそっと閉じると、その切っ先をリディアに向ける。中心には石突の代わりに、銀に光る銃口があった。


 対吸血鬼特殊部隊シルバーバレツト隊員、隊員番号九。クラリス・ルロワ。


 扱う十字武具ロザリエは、傘に仕込まれた対魔小銃フェイルノート


 魔力を銃弾として装填し、ひとたび放てば必ず標的を逃さないといわれる必中の武器。クラリスが微かに目を細めた、その直後。


 乾いた音が響いた。


 光る弾丸はリディアの肩をかすめ、パッと少量の血が舞う。弾丸は背後の木にめり込んだものの、幹が折れる気配はない。確実に威力は抑えられている。


「──……リディア・シラサギ。何故防がなかったのです? 貴女なら可能でしょう」


「逸らすと分かっていたもの。さすがに心臓を狙われていたら防いだわ」


「……………………」


 小降りになった雨は、静かに地上に降り注いでいる。


 張り付いた前髪の下で、クラリスはその美しく整った顔をくしゃりと歪めた。雨よりも大粒の涙が、薔薇色の頬を伝っていく。


「どうして……どうして、そんなことに! リディア……!」


 リディアの肩から、何かを焦がした時のような煙があがっている。対魔小銃フェイルノートから放たれた弾丸による傷は、瞬く間に消えていった。


「……隊員番号七、リディア・シラサギ。貴女に、吸血鬼化……の疑惑がかかっていました。しかし、見たところ自我を失った様子はありませんわ。説明を求めます」

「不完全よ。半分、吸血鬼の血が混ざってる……半吸血鬼ハーフブラツド。テネブレにやられたわ」


 クラリスは震える声で呟く。


隊員番号一ワンの推測通りですわ」


「私を殺せと命じられた?」


「反抗の意思があるようならば。けれどそうでない場合は──命を奪うことまではしないようにと、隊員番号一ワンとわたくしで上層部に掛け合いました」


隊員番号一ワンも?」


 意外な事実に、リディアは目を丸くした。


対吸血鬼特殊部隊シルバーバレットの仲間ですもの。隊員番号一ワンも、貴女を助けたいと思っているに決まっていますわ」


「…………」


 冷たくなった自分の腕をぎゅっと握る。こうしていると、本当に生きているのか疑わしいほどに体温が下がっているようだった。それは雨のせいか、吸血鬼化の影響かは分からない。


 ただ、リディアのやるべきことはもう決まっている。


「報告があるわ。ついさっき、この近くで死印を見つけたの。影の一族のものよ。この近くに影の真祖が潜んでいる可能性がある」


 涙を拭っていたクラリスの顔色が変わる。


「私がひとりで何とかしなきゃって思ってた。でも、対吸血鬼特殊部隊シルバーバレットを何人か派遣してもらえるなら、安心してこの町を出ることができるわ」


「……分かりました。すぐに本部へ連絡しますわ。わたくしも調査にあたります」


「──ありがとう、クラリス」


 今度は少しだけ自然と微笑むことができた。そのまま黙って両手を差し出す。クラリスは僅かに瞳を揺らがせたあと、覚悟を決めたように背筋を伸ばし、手をかざした。


「彼の者を捉えよ。拘束インヒビト


 あぁ、そういえばユークはこの魔法も上手く扱っていたなと思い出す。ファビアンを拘束したときだ。ほんの少し前の出来事なのに、遙か昔のことのように感じた。


 リディアの両手に、金色に光る拘束具がかかる。物理的に自由を奪うだけでなく魔力の行使も防ぐもので、術者にしか解除することは出来ない。


 ──命まで取られないのであれば、マドリも許してくれるだろう。彼が治療法を見つけて帰ってきてくれるまで、対吸血鬼特殊部隊シルバーバレットの監視下に置かれるだけ。何より心配していたリーヴェンのことは、他の隊員たちがきっと何とかしてくれる。真祖の可能性を示唆すれば、十分な戦力が送り込まれてくるはずだ。


 最初からこうすれば良かった、とは思わなかった。


 このリーヴェンでユークと再会できて、ずっと彼が待ってくれていたことを知って。ビビアナという友達もできた。


 二人には謝らなければならないことがたくさんあるけれど、本当に自分勝手なことに──リディアは故郷へ戻ってくることが出来て良かったと、そう思っていた。

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