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「──……」


 ユークは息を詰めて、微笑むリディアを見ていた。涼しい夜風が葉擦れの音を鳴らして、再び静けさが戻ってくるまで、二人の時間は動かなかった。


(……え? 私、何か変なこと言った……?)


 リディアがさすがに焦り始めたとき、ユークはふいと目をそらした。


「俺は……礼を言われるようなことは、何も。むしろ……」


 ユークは何かを言おうとして飲み込み、おもむろに立ち上がった。リディアの手からユークが離れていく。まるで感謝を拒絶されたように思えてしまい、胸がちくりと痛んだ。


「それより、もう夜には出歩くなよ。バイヤールもさすがに懲りたと思うし」


「それはムリ」


 今度はリディアがぷいっとそっぽを向いた。子どもじみた仕返しに、背後でユークが「は~~~?」と抗議の声をあげる。


「なんでだよ! あんな危険な目に遭っておいて!」


「ファビアンのことなら、一人でも対処できたわ。ただ、あの男を殺……必要以上に傷つけずあの場を切り抜けるにはどうしたらいいか考えてたら、少し反応が遅くなっただけよ」


「アリアの実力は魔力壁マギアウォールの一件でよく知ってる。けど、だからって危険なことをしていいってことにはならないだろ。大体なんで夜出歩くんだよ。あれか? 少し前に話題になった……」


「そう、吸血鬼。さっき下級の個体がいたわ」


「────」


 ユークは面食らって口を噤んだ。僅かな沈黙のあと、「倒したのか?」と小声で尋ねる。


「えぇ。私は中級までなら怪我もなく一人で倒せる。上級でも、多少怪我はするでしょうけど大抵は対処できるわ」


 ただ、その更に上位にあたる真祖直系は、事実上相打ちに終わったけれど、と心の中で付け加える。さすがにそこまで話すことは出来ない。


「例え下級であっても、町の周辺に吸血鬼が一体現れた。リーヴェンも安全ではないということよ。確かに吸血鬼は海や潮風を苦手としているけど、絶対的なほどではないわ。ただ、わざわざ自分たちにとって不快な場所で食事をしたくないから、これまで近づかなかっただけ。それが何故、今になって動き出したのかはまだ分からないけど……だからこそ調査が必要なの」


「……アリア、あんた何者なんだ?」


「吸血鬼殺しの専門家プロ。所属は明かせない」


 水面に映る月がゆらゆらと揺れている。気配で、ユークが息をのむのが分かった。


「ハンターとかいう連中はあてにならないわ。一応は見回っているみたいだけど、吸血鬼の探し方がまるで初心者よ。だから、私がやらないと。……ここまで言えば、夜に出歩いていても見逃してくれるかしら? お隣さん?」


「~~~~っ」


 このやろう、と言いたげにユークは顔を引きつらせる。リディアは少し笑って、自分の足下に視線を戻した。


「この話、誰にも言わないでくれる?」


「……言わないけど。一人でやらないといけないことなのか?」


「下級が一体くらいじゃ増援は呼べないわ」


 増援を呼べない理由は他にあるものの、それを明かせる筈もない。リディアは服に付いた泥を払いながら立ち上がった。


 ──ユークにここまで話して良いものかは、直前まで迷った。だけどこれ以上ユークを心配させたくないという気持ちが勝った。虚勢でもなんでもなく、本当に〝大丈夫〟なのだと分かってもらいたかった。


「ありがとう、ユーク。お陰で洗い流せたわ」


「……あぁ、うん。なら帰ろうか」


「そうね、もうこの辺りに吸血鬼の気配はないみたいだし」


 ユークはまだ納得していないようで、難しい顔で考え込んでいた。そのことには気付いていたけれど、リディアは何も言わなかった。


 歩き出してすぐ、ユークが「あっ」と小さく声をあげた。


 何かを見つけたようで、道から外れたところに行ってしゃがみ込む。


「どうしたの?」


「ほら、これ」


 そう言って草をかき分け、ユークが見せてきたのは美しく咲く純白の花だった。仄かに発光するそれは、記憶の中に残る姉の魔法と同じ姿をしている。


 ──ミュラの花。


「水辺に咲くことが多いって聞いてたけど、まさかここで見られるとはな」


「……花が好きなの?」


「そういうわけじゃないけど、この花だけは……特別なんだ」


 その優しげな横顔に、どくんと心臓が跳ねた。


 姉のマリナとユーク、ふたりが仲睦まじく小指を絡める、あの絵画のように美しい一瞬を思い出す。同時に、そんな光景を前にして、胸に黒い感情を生んだ自分自身のことも。


(……もう、思い出したくないのに)


「ミュラの花っていうんだ。花言葉は──……」


「〝約束〟でしょ?」


 早くこの話を終えたいという自分勝手な理由で、リディアはユークの言葉を遮るようにして言った。


「本で見たことがあるわ。……寒くなってきたし、もう行きましょう」


 ひときわ強い風が吹く。分厚い雲が月を覆ったせいで、その時のユークがどんな表情をしていたのか気付くこともなく──……


 夜は緩やかに深まっていった。




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