2
「ガッ……」
短い悲鳴をあげると、異形はみるみるうちに灰になり、風に乗ってすうっと消える。理解が追いつかずにいると、ぬかるみを踏みしめる別の足音が聞こえた。
暗がりから人が姿を現す。
フードを深く被っていて顔は見えないが、シャツを持ち上げる胸の膨らみや、ショート丈のボトムスから見える白く柔らかそうな脚から、女であることは明らかだ。
「は……っ、え……?」
まだ身体の震えが治まる気配はない。湿気を帯びた空気のように恐怖がこの場に残り、纏わり付いているようだった。だというのにその女はまるで何事も無かったかのように歩いてきて銀の短剣を拾い上げ、サッと泥を払うとすぐにきびすを返す。まるで落としたハンカチを拾っただけとでも言いたげな振る舞いに、ファビアンの頭にカァッと血が上った。
「待てっ……!」
「──!!」
ファビアンが離れていこうとするその脚を掴むと、地面がぬかるんでいたこともあり、女はバランスを崩した。ずしゃっと音を立てて倒れ込み、その拍子にフードが取れた。今夜の月明かりにも似た、
「……!! ……お、お前は……!」
アリア・シェード。ファビアンに呪いを刻み込んだ女だった。
(……あの化け物を屠った短剣を、この女が拾い上げた)
胃がよじれるように痛み、呼吸が更に乱れていく。
(この女に、僕は、助けられ……た? そんな、ぶ、無様なことが……)
「…………」
目の前で倒れ込むアリアに目を向けた。いつもほとんど表情を変えることのない顔に、動揺が走っている。そう認識した瞬間、ファビアンの中で何かが切れた。
(──あぁ、そうか)
むき出しの腿を掴む。恐ろしく滑らかで、柔らかく、白い肌が、ファビアンの手についた泥によって簡単に穢れる。びくっと肩が跳ねたことも、鋭く息をのんだ気配も、嫌悪感を露わにした表情も、何もかもが情欲を掻きたてる要因でしかなかった。
人の上に立つ人間になれと、幼い頃から言われて育った。それなのに、この女にしてやられた記憶を二つも残すわけにはいかない。だから、
(想像を、現実にすればいい)
上書きするのだ。この女を蹂躙した記憶で、他の事実を塗り潰せばいい。自分がされた以上に辱めてやれば、きっと呪いから解放される。
「はぁ、はぁ……っ」
異形に襲われかけた恐怖と、アリアへの嫉み、そして情欲がない交ぜになり、ファビアンは極度の興奮状態に陥っていた。視点が定まらず、締まりきらない口から涎が垂れていることにも気付かず、ただ目の前の肢体を想像の中でやったようにねぶり尽くすことしか考えていない。
そのような状態で、アリア──リディアが短剣を握り直したことに気付ける筈がなかった。
しかし同時に、リディアも気付けなかった事実もあった。それはある人物の接近。
これが仮に吸血鬼であったなら、吸血鬼殺しのエキスパートであるリディアは察知していただろう。
「があっ!」
リディアが短剣を突きつけるより先に、ファビアンの身体は横に吹っ飛んだ。
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