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 海に落ちてからはしばらく何もせず、沈んでいく身体をそのままに、水面に向かってのぼっていく泡をバカみたいにじっと見つめていた。魚の姿は見えず、まるで世界にひとりきりのようだった。


 海水は肌を刺すように冷たい。寒い。でも、それだけだった。


 そろそろ浮上しなければと顔を上げたその時、光差す水の天井に影が映った。


(──……?!)


 ユークだ。向こうもリディアの姿を捉え、こちらに向かって泳いでくる。その顔は、どこをどう前向きに見ても──ぶち切れていた。


 ユークは戸惑うリディアの身体に片腕をまわし、少々乱暴に抱きかかえる。途端に、大きなうねりに飲み込まれるかのような感覚に陥った。


(あ、え、うそ──)


 そのあとは、なすがままになるしかなかった。


 ぐんと身体を引っ張られるようにして、猛スピードで浮上する。あっという間に海は吐き出すようにして二人を海岸まで運んだ。まるで打ち上げられた魚だった。


「げほっ……ごほ……はっ、はぁ……」


「…………~~~~この……っ」


 ユークはぶるぶると震えながらリディアを組み敷いて、思いきり怒りを叫ぶ。


「大馬鹿やろう! 急に海に飛び込んで一体何を考えてるんだ?! しかもあんなとこから……下手したら死ぬぞ、この馬鹿!」


「…………」


 ユークの言葉を受け止めながら、そっと手を目の前にかざしてみる。


(……変化は、ない。痛みも)


「──……って、聞いてるのか?!」


「うん。……ごめんなさい」


 リディアは呟いた。心からの謝罪だった。


「ごめんなさい、ユーク。そんなに、心配してくれていると思わなかったの」


 ──もう、七年前に消えた薄情な幼なじみのことなんて何も思っていないだろうと、そう決めつけていた。それがまさか、ずっと待ち続けていてくれたなんて。あんな風に想ってくれていたなんて、想像していなかったのだ。


 そんなことも知らずに、リディアは死を選ぼうとした。


 あのときマドリは『謝れ』と言った。それはきっと、ユークのようにリディアを想うひとたちへの謝罪を指していたのだと思った。


 それでも、リディアは自分の身体への恐怖を捨てきれない。いつか吸血鬼になって、誰かの血を欲してしまうのではないかと。あんなにも憎んでいた姉の敵と同じ存在になってしまうのではないかと、気が気でなかった。


 だから、涙を隠すついでに確かめようと思ったのだ。


 吸血鬼は主に三つの要素を嫌う。太陽、銀、そして塩水。リーヴェンに吸血鬼が滅多に現れない理由は、ここが海に面した港町だからだ。


 太陽は問題なかった。あとは海へ身を浸したとき、何も起こらなければ──もう、己の心臓を、銀の短剣で貫く考えは捨てられるだろうと思った。リディアの身に起きているのは、髪と目の色の変化、味覚の変化、自己回復能力の発現ということになる。


(まだ大丈夫。まだ、私は──……)


 リディアは大きく深呼吸をして、訝しげに目を眇めるユークを見た。


 改めて、彼のことが好きだと思う。


 人のために躊躇うことなく海に身を投げて、こうして叱ってくれる優しさを持つユーク・シュナイトのことが、どうしようもなく。


 ユークはまだ何かを言いたそうだったが、諦めたように溜息を吐いた。


「……反省してるならよし」


 と、その時、どさりと何かが落ちる音がした。二人で振り返ると、そこには漁師らしき男がポカンと口をあけてこちらを見ていた。落としたのは漁網だった。


「あんたら……そういうのは、家でやれ。な?」


 動揺とも心配とも取れる声色だった。ユークとリディアは一瞬顔を見合わせて、そして自分たちの体勢が第三者からどう見えるのか気付いた。仰向けになるリディアに、覆い被さるユーク。恋人同士の戯れ──に、見えてしまったのだろう。


「「──誤解ですっ!!」」


 一瞬にして顔を赤らめた二人の声が、見事に重なった。

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