3
ユークに連れられやってきたのは、海辺にそびえる大きな岩場だった。正式な名称ではないが、地元ではオリゾンの岩場と呼ばれている。オリゾンというのは古代語で地平線を意味し、由来はそのまま『地平線がよく見える場所だから』ということらしい。
陸地に面しているほうがちょうど階段のような削れ方をしているため、簡単に上までのぼることができ、時折そこから海に飛び込むことで度胸試しをする若者もいると聞いたことがあった。しかし今は夜明け前、さすがに人影は見当たらない。
「ちょっと足場が悪いけど、近くだとここが一番眺めがいいんだ。建物とか船に視界を阻まれないから」
頂上につくと、平らな場所を探してふたりで腰を下ろす。思ったよりも互いの距離が近くなり、落ち着かない。
子どもの頃はここへのぼった事がなかった。危ないからとシスターの許しが出なかったのだ。大人になればいつかここから地平線を見てみたいと、ぼんやり思っていた。
ユークは既に何度か来たことがあるような口ぶりだったが、昔はどう思っていたのだろうかと気になって、そっと横目で様子を窺う。と、ちょうど視線がぶつかってしまった。慌てて前を向こうとするが、その前にユークが口を開いた。
「アリア」
ユークにその名で呼ばれたのは初めてのこと。
リーヴェンに来てから散々口にしてきた名前なのに、リディアは一瞬誰のことかが分からなかった。それほど、ユークの声で紡がれるその名は馴染みの無いもののように思えたのだ。
「最初に会ったとき、人違いしてごめん。幼なじみにそっくりだったから……絶対そうだって思い込んだ。失礼だったよな」
「…………」
日の出前の海は静かだった。少し湿った潮風は優しく、波の音が心地良く耳に届く。そんな穏やかな空気のお陰だろうか。
「気にしてないわ」
言葉も笑顔も、驚くほどすんなりと作ることが出来た。
なら良かったと、ユークは安心したように言ってから海に視線を戻した。空が白んできている。まもなく夜明けだ。
「幼なじみは……リディアは、マレーヌが好きだったんだ。俺も一緒によく食べてた」
「だから別人だって分かったのね。私が食べられなかったから」
「それもあるけど、よく考えたら俺に正体を隠す理由なんて無いよなって思ってさ」
苦笑していたユークはそのまま俯いて、表情を隠してしまう。
「──……どこにいるのか分からないんだ。施設育ちで、お互い別々のところに引き取られて。ある日突然、リーヴェンを出るって手紙が来た。それきりだ」
「……そうだったの」
リディアは膝を抱く腕に力を込める。
──七年前。姉を殺した吸血鬼へ復讐するためにリーヴェンを出るのだと、ユークに打ち明けることができなかった。言えばきっと止められると思った。そして弱い自分はきっと、それだけで決意が揺らいでしまっただろう。
だから今、ここまでユークを心配させてしまっているのは全てリディアのせいだった。
「追いかけようにも行き先が分からないし。だから俺は、ここで待つことしか出来ない」
「待つ? もう帰ってこないかもしれないのに?」
その幼なじみは、死のうとしていたのに。
「それでも待つよ」
淀みなく答えて、ユークは顔を上げる。その瞳に光が差し込んだ。
「日の出だ。ごめん、気分転換なんて言っておいて変な話して」
「ううん」
地平線から太陽が昇る。空と海の境界がまばゆく光り、顔を出した朝日が夜の闇を塗り替えていく。確かに美しい光景だ。子どもの頃、思い描いていたよりもずっと。
「本当に綺麗。ありがとう、こんな場所を教えてくれて」
「気に入ってくれて良かったよ。子どもの頃は、オリゾンの岩場は危険だから上るなって言われててさ。でもほら、禁じられると逆に行きたくなるだろ?」
ユークは笑いながら話す。
うん、私もそうだったよ、と。そんな他愛ない言葉さえ返せない状況が苦しかった。全ては自ら招いたことなのに、自分勝手な苦しみだった。
──だからこそ。
朝日が滲む前にリディアは決心する。このタイミングで涙は見せられない。
「私、ちょっと泳いでくる」
ユークは怪訝そうにこちらを見た。その顔に『聞き間違いだよな?』とあまりにハッキリ書いてあるので、思わず苦笑いをする。
「泳いでくるから、先に帰ってて。今日はありがとう」
「…………え?」
リディアは立ち上がると、崖の縁まで歩いて行った。といっても五歩も歩かないうちに道は無くなって、眼下に海が見えた。高さは大体二十メートルほどだろうか。岩場にぶつかった波が、白いしぶきをあげている。
振り返ると、ユークはようやく我に返り慌てて立ち上がろうとしているところだった。
「おい、ちょっと待っ……」
「大丈夫。泳ぐのは得意だから」
逆光のせいでユークからはよく見えないだろうけれど、リディアはにこりと笑う。そしてユークの手が届く前に、トンと地面を蹴った。
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