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「はっ──……!」


 リディアは鋭く息をのんだ。部屋も、外も暗い。夜だろうか。リディアはベッドの上で横になり、両手で短剣カルンウェナンを握り──その切っ先を、真っ直ぐ自分の心臓へ向けていた。


「はぁ……っ、はぁっ……」


 徐々に頭がはっきりとして、五感も機能し始める。自分の荒い呼吸をかき消すように、激しく何かを叩く音に気付いた。玄関のほうからだ。


「頼む、開けてくれ!」


「……ユーク?!」


 ギョッとして、短剣カルンウェナンをネックレスの形状に戻し、慌ててベッドから抜け出す。何が起きているか分からないが、ユークの切羽詰まった声がリディアを急き立てた。


「あっ……」


 急いで扉を開けると、ユークがノックする途中の格好で静止した。


「な、何事? どうしたの、こんな夜に……!」


 もう遅いかもしれないが、近所迷惑にならないよう声をひそめて問い詰める。ユークは目を白黒させてから、同じく小声で詰め寄ってきた。


「何事ってそれはこっちの台詞だ! 大丈夫なのか!?」


「え?」


「俺のこと呼んでただろ! 助けてって……苦しそうな声も聞こえたし」


「……………………」


 リディアはくらりと目眩を感じた。ユークの言葉を頭の中で反芻する。


(助けてって言った? ユークの名前を呼んで?)


「……私が?」


「ここの部屋、壁薄いんだよ。だから気付けて良かったけど。……ただ……」


 ユークは何かを思案したあと、怪訝そうに「部屋にはひとりだよな?」と尋ねてくる。しかしリディアには答えられる余裕が無かった。


(~~~~っわ、私、なんてことを……!)


 かああっと全身の熱が上がっていく。おそらく赤らんでいる顔を隠すように、リディアは俯いた。


「あ、悪夢を見ただけ。多分うなされていたんだと、思う」


 ユークは一拍おいてから「そうか」と言った。深く追究する気はなさそうだ。


「ごめんなさい、こんな夜にうるさくして……起こしちゃったのよね」


「いいよ、大事じゃないなら良かった。けど酷い顔だ。最近ちゃんと眠れてるのか?」


「…………」


 眠れてはいなかった。瞼を閉じれば、このまま自分がおかしくなってしまうのではないかという恐怖に襲われた。自分が命を失うだけならまだいい。もし、関係の無い周りの人に手を出してしまったら──それこそ死んでも償いきれない罪だ。


 ユークは心配そうにリディアの顔色を窺っていた。あれからずっと避け続けているというのに、こんなにも心配してくれている。罪悪感が胸に広がっていった。


「……なぁ、どうせ眠れないなら、このあとちょっと付き合ってくれないか?」


 俯くリディアに、ユークはそう声をかけた。思いも寄らぬ誘いだった。


「え?」


「そろそろ日の出の時間だ。朝の海、俺は好きでさ。良い気分転換になると思って」


 真夜中だと思っていたら、夜明けはすぐそこだったらしい。


 出来る限り関わらないでおこうと決めていたのに心が揺らいでしまうのは、いよいよ精神に限界がきていたからかもしれない。


 もともとリディアは強い人間ではなかった。ただ吸血鬼への復讐心を糧に、弱音を吐くような自分の心を殺して死地に赴いていただけに過ぎない。


(少しは強くなれたつもりでいたけど……全然だめみたい)


 リディアが小さく頷くと、ユークは安堵したように目を細めた。


「じゃあ急ごう。日の出に間に合うように……」


「あっ! ちょ、ちょっと待って!」


 今更とんでもないことに気付いてしまった。うじうじとした思考が再び羞恥に塗り替えられていく。冷や汗が流れていくのを感じながら、リディアは胸元を腕で隠し、一歩後ずさった。


「──き、着替えてからでも、いい?」


 問題は今の服装だった。夜、眠るときに着用している純白のナイトウェア。襟とスカートの裾に控えめなレースがあしらわれた、シンプルかつ上品なデザイン。これはリディアが自分で選んだわけではなく、対吸血鬼特殊部隊シルバーバレットの同僚からプレゼントされたものだった。


『いいですか。意中の方ができたら、この寝間着ネグリジェを着て夜這いするのです。ほ乳類ヒト科であれば間違いなく瞬殺ですわ。つまりとてもお似合いだと、そう言いたいのです』


 と力説されたものの、夜這いに利用したことなど当然なく、単に着心地が良いからという理由で愛用していた。


 ただ上質な生地ではあるものの薄手で、そして何より就寝時なので下着をつけていない。たったの布一枚、胸の膨らみを始めとした身体のラインを隠すにはあまりに心許なかった。


「……………………」


 ユークの視線は、リディアの動作につられて胸元に移動していた。腕で覆ったことにより、意図せず生まれたのであろう谷間がその柔らかさを想起させる。


「──どうぞ!!」


 ユークは弾かれたように顔を上げ、勢いよく答えた。


 リディアはそろそろと後退して扉を閉め、急いでブラウスとショート丈のデニムパンツをクローゼットから引っ張り出した。この時間帯でなければ、きっと恥ずかしさに叫んでしまっていたことだろう。


 一方、ひとりになったユークは雑念を払うべく己に軽い平手打ちをかましていた。


 朝日が昇るまで、まだ時間はあった。



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