第二章 過去に囚われる

1




 リディアが初めて吸血鬼を見たのは八歳の時だった。隣町で大規模な祝祭が行われる年で、リーヴェンでも六歳以上の子どもたちが招待された。


 隣町といっても、リーヴェンを囲む山々を大きく迂回しなければならず、子どもにとっては長旅だった。それでも初めての遠出にリディア、マリナ、ユークは浮き足だっていて、馬車の窓から身を乗り出そうとしては付き添いのシスターに何度も咎められたのを覚えている。


『あの影なぁに?』


 ふと、誰かが外を指さして言った。みんなの視線がそちらに向くより先に、馬車は何かに衝突して大きく傾き──視界が暗転した。





 しばらくして目を覚ますと、茂みの中だった。馬車から投げ出されたのだろうが、その時のリディアは状況を把握できなかった。ただ、すぐそばにユークも倒れていて、ちょうど起き上がるところだったので、それだけはホッとしたのを覚えている。


『ユーク……! 何が起こったの?』


『っ……わからない……』


『ユーク、け、怪我してるの? お姉ちゃん、シスター……』


 肩から血を流し、顔をしかめるユークに青ざめ、姉やシスターの姿を探した。自分も腕や背中が痛んだけれど、きっとユークの怪我よりはマシだと思った。


 茂みから抜け出そうとして、リディアは固まった。そこに広がっていたは地獄だった。


 大破し、炎上する馬車。おびただしい量の血を流し、倒れている共に育った兄弟たち。シスターの腹には、何かに貫かれたのかぽっかり大きな穴があった。笑うとき、いつも柔和に細められていた優しい目は恐怖に見開かれていた。


 その地獄の中心で、姉は吸血鬼の腕に抱かれていた。


 だらんと両手を垂らして、無防備に白い喉を晒して、その生気の無い顔を涙に濡らして。


『あら、まだいたの』


 吸血鬼がチラリと、その赤い双眸をリディアに向けた。


『でも、そろそろ満腹なのよね』


 そうして赤く濡れた唇を舐めて、興味なさげに食事を再開した。


『────』


 姉と目があった。姉の目に、ほんの少し光が戻った。


 血を流した半開きの口が弱々しく動く。リディアはその言葉を読み取ると同時に茂みから飛び出そうとし、強い力で引き留められた。ユークだった。


 ユークはリディアの腕を掴み、恐怖に引きつった顔で姉を見つめていた。姉もユークを見て、何かを訴えているようだった。それは、ほんの一瞬のことで。


『──走れ!』


 ユークは怒号のような声をあげ、リディアの腕を引いて駆けだした。なんで、ユーク、お姉ちゃんがと泣きわめくリディアに、ユークは言い聞かせるように声を絞り出した。


『何もできない! 俺たちは何も……っ!』


 そう、逃げることしか。





 それからどうやってリーヴェンに帰ったのか、よく覚えていない。ただどこかで大人たちに保護されて、施設に残っていた教会専属医療魔術師のマドリに引き渡され、精神状態が落ち着くまでの数週間を病院で過ごすことになったというのが、あとから理解した自分の状況だった。


 更にそのあと、生き残ったのはユークとリディアだけであり、事件を起こしたのは影の一族、真祖直系ノーブル吸血鬼ヴァンパイアテネブレであることがCVOの調査で明らかになった。


 姉や、他の兄弟や、母代わりだったシスターを殺した女。


 あの女の血が、今のリディアには流れている。


 おぞましい。


 やっぱり殺そう死のう。あの女の欠片を生かしておくわけにはいかない。マドリはリディアを信じると言ったが何を根拠に? リディアは自分のことをまるで信じられない。いつ人間に牙を剥くか分からない。そんな不安定な存在を、あの地獄を見たリディアだからこそ許せない。


 もう目的は果たしたから、だから──……



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