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結局、その日は
アパートの扉の前で別れを告げたときのユークは、どこか思い詰めたような表情を浮かべていた。何か言うべきかと逡巡したものの、謝罪以外の言葉は出てこず、そのまま鍵を閉めて靴を脱ぎ、ベッドに倒れ込んだ。
──味覚の変化。
半吸血鬼化による影響としてマドリが挙げた可能性のひとつだった。リーヴェンへ来る前に口にした食べ物の中で、これといって違和感を覚えたものはなかったので油断していた。
(でも、そのお陰で……もうユークは私がリディアだと疑わない、わよね?)
幼い頃、彼と、姉と、自分の三人でよく食べた大好物。
(好きなものが食べられなくなっただけ。それだけで、ユークを巻き込まなくて済むなら……うん、良かった)
両手を眼前に掲げる。微かに震えていた。それは、なるべく考えないよう心の奥底に秘めていた恐怖によるものだった。
「もし……血が美味しいって思うようになっちゃったら、どうしよう」
気付けば不安を言葉にしていた。誰も聞いていない、ひとりきりの空間なのに、自分の中だけに押しとどめておくのが苦しくて。
(──あぁ、もしそうなったら、私は本当に……)
ネックレスを服の中から取りだして、魔力を込めた。手の中に短剣(カルンウェナン)が具現化する。数多の吸血鬼を屠った、リディアだけの十字武具(ロザリエ)。
『これを返すのは、お前を信頼しているからだ』
マドリの言葉が蘇る。リディアは下唇を噛むと、ゆっくり短剣(カルンウェナン)を手放した。銀の粒子となり、十字型のネックレスに戻っていく様をぼんやりと見つめる。
日は、まもなく沈もうとしていた。
────……
『シスター! お姉ちゃんとユークがどこにいるか知ってる?』
『あらあら。そんなに慌ててどうしたの、リディア』
一歳になったばかりのオリバーをあやしていたシスターが、バタバタと興奮した様子でやってきたリディアを見てくすりと笑う。
『だって、私も火の魔法が上手く使えるようになったんだもの。五本のローソクに火をつけられたって、はやく二人に報告したいの』
『まぁ! それは凄いけれど、危ないから大人がいるところで試すのよ?』
『さっきもちゃんとマドリ先生に見てもらってたわ。それで、二人は?』
『マドリ先生に? それなら安心ね。二人なら中庭のほうで見たわよ』
シスターにお礼を言って、中庭に急いだ。教会の裏口から外へ出て物陰に隠れる。二人を驚かせてやろうと思った。しかし、
(……? 花びら?)
ふわりと、風にのった花びらが目の前を横切って、リディアは首をかしげる。今の時期に咲く花なんて、中庭にはなかったはずだ。
物陰から顔を出す。そこには、信じられない光景が広がっていた。
──純白に輝くような、美しい花畑。
そして花びらが舞う中、少年と少女が仲むつまじく手を取りあっている。まるで絵画のような一瞬に、リディアは息をするのも忘れてしまった。
『──ね?』
少女──マリナが少し身を乗り出して、愛らしく微笑む。ユークは顔を背けながらも、微かに頷いた。
『わかったって……』
『絶対よ? ほら、指切り』
そっと小指を絡める二人が、何を話していたのかまでは分からない。けれど、耳まで真っ赤になったユークを見て悟った。
あんなユークは見たことがなかった。
三年前、教会が運営するこの児童養護施設にやってきた彼。どろどろに汚れた服と顔。周囲への警戒心に満ちた暗い目。そんな荒んだ様子に、一足先に養護施設で暮らしていたマリナとリディアは、姉妹揃って目を丸くしたものだ。
それがいつしか、少しずつ会話をするようになって。一緒に絵本を読むようになって。寂しいときはお互いに励まし合って。夕食前にこっそりマレーヌを買いに行って、三人で怒られるようなこともあって。
そんな何気ない日々の中で、恋をした。
リディアはユークに。そしてきっと、ユークは……
『あれ? リディア?』
鈴のような声がリディアの名を呼んだ。気付くとあの美しい花畑は消えていて、マリナとユークの視線がこちらに向けられていた。
『あ……お姉ちゃん』
マリナは軽やかな足取りで駆けてくると、リディアの手をぎゅっと握って問いかけた。
『ふふっ、見つかっちゃった! あれね、光属性と地属性の魔法を合わせてみたの』
頭を殴られたような衝撃だった。二つの元素を用いた魔法なんて、大人でも会得が難しいはずだ。それを、たったの九歳で成功させたという。火の基礎魔法が上達した程度で大喜びしていた自分が、無性に恥ずかしくなった。
『水辺によく咲いてる、ミュラの花っていうんだけどね。ユークに花言葉を教えてあげていたの。リディアも気になるなら、彼に聞いてみて?』
マリナは嬉しそうにそう言い残すと、ひらひらと手を振って施設の中へ消えていった。
そのあと、静寂に耐えきれなくなって、リディアはユークにミュラの花言葉を聞いた。ユークは少し離れた位置に立ったまま、小さな声で〝約束〟だと答えた。
──約束。
二人の指切りを思い出すと、今でも胸が苦しくなる。同時に、ユークの親切心に甘えてはならないと心にブレーキがかかる。
リディアはただの幼なじみ。ただ、彼が好きな人の妹というだけなのだから。
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