第一章 新たな物語




 ──ゼーレ湾の最奥部、コルヌ山脈に囲まれた町リーヴェンは、気候も良く天然の良港だったことから多くの貿易船が行き交い繁栄した。


 白レンガ造りの建物が並ぶ旧市街は道が迷路のように入り組んでいるが、窓辺や扉に飾られた花が美しく、どこを切り取っても風情がある。噴水がある中央広場には芸術的な石畳が広がり、人々の憩いの場として常に賑わいを見せていた。


 平和な港町リーヴェン。故郷であるこの地にリディアが帰ってきたのは、七年ぶりだった。


 近年は吸血鬼による事件もほぼ起きていないという。対吸血鬼特殊部隊シルバーバレットの本拠地があるカゴニアから二千キロ離れた町は、まるで同じ世界とは思えない、穏やかな空気が漂っていた。


「……ふう……」


 船から降り、肺いっぱいに吸い込んだ海の香りをゆっくり吐き出して、リディアは大きなボストンバッグを手に歩き出す。


 潮風になびく氷銀ひがねの髪と、宝石のような紅紫色の瞳に人々の視線を集めながら。






 メモに記された住所へ向かうと、青い屋根の古びたアパートがあった。三階建てで、見たところ築四十年ほどだろうか。縦長の窓には鎧戸と、鉄製のシンプルな柵。他の建物よりも地味な印象がぬぐえないが、リディアはそこが気に入った。


『死体が見つからないとなれば、当然、組織は吸血鬼化を疑っているだろう』


 塗装が剥げた階段を上がりながら、マドリの言葉を思い出す。


『見つかれば厄介だ。治療法が分かるまでは別人として暮らせ。ちょうど外見にも影響が出てることだし、多少は奴らの目を誤魔化せ……なんだ、気付いてなかったのか?』


 301のプレートが掛けられた扉の前に立つ。三階の角部屋だ。管理人から預かった、頭部分が銅で出来ている鍵を鍵穴に差し込んで回す。


『とにかく、住居は準備してやる。通学の手配もな。若者なら若者に紛れ込んでいた方が自然だ。あぁ、それと』


 カチリと解錠の音がする。


『──お隣さんには、挨拶しておけよ?』


 思い返せば、その時のマドリの言葉には含みがあった。しかし他に考えることが多く、注意力が散漫になっていたリディアには気付くことができなかった。


 冷たいドアノブに手を伸ばすと同時に、隣の部屋の扉も開いた。中から出てきた人物と目が合う。同世代の男だ。あぁ挨拶の手間が省けたと思ったのも束の間。


 ──先に気付いたのは、男のほうだった。


「…………リディア?」


 名前を呼ばれ、リディアは驚いた猫のように飛び上がりかける。


「リディア、だよな? 俺だよ、ユーク……」


「人違いです」


 声が裏返りそうになるのをこらえ、何とか答える。男は動揺に目を瞬かせながら「いや、でも」と食い下がる。


「はじめましてユークさん。今日、隣に越してきたアリア・シェードです。どうぞよろしく」


 マドリが用意した偽名を名乗って素早く部屋に入り、バタンと扉を閉めた。


 しばらく呆然としたあと、暗闇の中で悪態をつく。


「……うそでしょ……わざとなの?」


 手探りでスイッチを探し当てて灯りを付け、ボストンバッグを小さなテーブルに置く。自身は崩れ落ちるようにソファに腰を下ろし、声が響かないようにクッションに顔を埋めた。


「先生のバカ、何考えてるの……っ、どうしてわざわざユークの隣の部屋なんて! 別人として過ごすのに都合が悪すぎでしょ! っていうか、どうして七年ぶりなのに……髪の色も、目の色も、変わってるのに……」


 リディアは立ち上がり、脱衣所に備え付けられた大きな鏡に自身を映し出した。何度見ても、そこにいるのは本来の特徴を失った姿だ。


 冷たい月明かりのように青みがかった銀色の髪、煌々と輝く紅紫色の瞳。これらは全て、吸血鬼の血が体内に流れたことによる変貌だ。顔の造形まで変わったわけではないが、こちらは七年という月日が成長という変化をもたらしているはずだった。


 なのにあの男は──ユークは、一目見ただけでリディアの正体を見抜いたのだ。


「……~~~~っ」


 この際、髪や目の変化などどうでも良かった。それより今、鏡に映った自分の顔。それが耐えきれなくて、両手で目を覆ってリディアは叫んだ。


 見事に真っ赤である。


「ほんと……反則すぎる……なんか、か、かっこよくなってるし……」


 ユーク・シュナイト。


 リディアの幼なじみであり、初恋の人。


 そんな人に再会したとあっては、心臓もうるさくなるというものだ。

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