第20話 声

 五限の授業を終えた後、スマホを開くと菜乃花からメッセージが届いていることに気づいた。


『今日の放課後に穣くんと別れることにした』


 簡潔に書かれた一文。

 菜乃花の覚悟が伝わる一文。

 昨晩、菜乃花は言っていた。

 俺には頼らずにしっかりと別れる。これはけじめだから、と。

 とはいえやっぱり不安だ。


 鷺沼穣。

 菜乃花が普段は優しいと言っていたけれど、正直それも少し怪しいと思う。

 菜乃花のことを寝取ってほしいと頼んできたときの鷺沼の態度。

 どこか威圧的で、菜乃花の言っていた鷺沼の印象とは大きく異なっていた。

 あれが彼の本性だというのなら……。


 俺もその場に居合わせたい。

 いざとなれば彼女を助けられるように。

 でも、彼女の覚悟をなかったことにはしたくない。

 だから──。


『なにかあったらすぐ連絡して』『どこでもすぐ駆けつけるから』


 そう返信した。

 菜乃花がどこにいてもすぐに駆けつけられるように、俺は学校内にはいよう。

 とりあえず自分の中でそう方針を固めて、そして六限の授業開始を報せるチャイムが、俺の思考を現実に引き戻した。


◇◆◇


 放課後。

 終礼を終えて、多くの生徒がぞろぞろと教室を出ていく。

 その中でも真っ先に出ていったのは菜乃花とその友達たち。

 そして、鷺沼も部活仲間だろうか、友達になにかを告げてから、教室を出ていった。


 俺もしばらくたったのち自分の席を立つ。

 教室で待つことも考えたが、この教室は吹奏楽部が練習で使うため、その選択は除外した。


 学校内を下校する生徒の流れに逆らうようにうろうろと歩き回る。

 落ち着かない。

 今頃、菜乃花は鷺沼を振っているころだろうか。

 なにもなければ良いんだけど……。


 俺は菜乃花がどこにいるのかわからない。

 どこでもすぐに駆けつけると言って学校にとどまったけど、よく考えたら学校で行われている保証もない。

 まあ、鷺沼が部活あるだろうから校内だとは思うんだけど。


 やがて、下校する生徒も部活に向かう生徒も数を減らしていき、放課後特有の喧騒が収まっていく。

 その代わりに吹奏楽部だろう、様々な楽器の音がまばらに鳴っているのが耳に届く。


「み……な──っ!!」


 そんな中、場違いな、そして聞き覚えのある声が耳を掠めた。

 意識していなければ聞こえないほど遠いところからのとても小さな声。

 でも、確実に菜乃花の声だった。


 もう終礼を終えてから十五分ほど経っている。

 ただの別れ話にしては長くなかろうか。

 ただ俺が心配性なだけかとも思ったが、さっきの菜乃花の声、もしかしたらなにか起こったのかもしれない。

 勘違いならそれでいい。

 でも、もし勘違いじゃなかったら?

 さっきの菜乃花の叫びが助けを呼ぶものだったら?


 俺は駆け出さずにはいられなかった。

 とはいえ、届いた声は小さいし、わかったのは方角くらい。

 それでもその方角にむけて廊下を駆け抜ける。


「菜……花から離れ…………いっ!」


 また声が聞こえる。

 今度は菜乃花の声ではない。

 でも、いつも教室内で菜乃花の声と共によく聞く声だ。

 名前はたしか……明智さん、だったか。

 そしてそんな明智さんの発した言葉は、所々聞き取れないものだったけど、でも確かに菜乃花と聞こえた。

 教室を一緒に出ていったことからも二人が一緒にいると考えて間違いないだろう。

 聞こえてきた方角も同じだし。


 俺が今いるのが一年生から三年生まで全てのクラスの教室が並ぶ、生徒棟の二階。

 そして明智さんの声は下のほうから聞こえてきたから、おそらく菜乃花は一階にいる。たぶん文化棟のほうの。


 そう考えた根拠はいくつかある。

 一つは生徒棟の一階、真下からの声にしては明智さんの声が離れすぎていたこと。

 他には、生徒棟の教室は、この時間でも大概どこも人が残っていることもある。

 菜乃花もさすがに人がいる場所で別れ話をすることはないだろう。


 そして俺は、文化棟の一階の教室で滅多に人が来ない教室を知っている。


「旧視聴覚室──!」


 急ぐ。

 渡り廊下を走って文化棟へと向かう。

 途中すれ違った教師になにか言われた気がしたが、全く耳にはいらない。


 階段を駆け降りる。

 何度か転びかけたけど、なんとか踏みとどまる。

 そして階段の最後の一段を降りたとき。


「っ──! 離して!」


 声がした。

 はっきりと、菜乃花の声が。

 なにかを拒絶する、菜乃花の声が聞こえた。

 この廊下の先。

 俺の予想は正しかった。やっぱりあの教室だ。

 そして嫌な予想も当たってしまった。

 ……あの教室でなにか起きてる。


 短い距離だが、出きるだけ早く菜乃花のもとへと行けるように走った。


「だからま……」


 教室の手前。

 今度は鷺沼の声。俺に向けていた、あの威圧的な鷺沼だ。

 旧視聴覚室の扉は開いており、菜乃花の手を引きなんとか逃がそうとする明智さんと目があった。


 明智さんは少し驚いた表情をした後、今度はちょっと呆れたような表情にころっと変わって、菜乃花の手を離した。

 それとほぼ同時に、俺は菜乃花の手を握る鷺沼の腕を強く握り、鷺沼の言葉の上から被せるように、言い放つ。


「菜乃花から手、離してもらえる?」


 それから菜乃花に少しでも安心してもらえるように後ろから抱きしめる。

 菜乃花の身体は小刻みに震えている。


「玲くん……?」


 彼女が言いたいのはどうしてここにいるの? だろうか。

 彼女は言っていた。

 これは私の問題だから。自分でけじめをつける、と。

 彼女の決意を無下にしてまで、俺は横やりを入れた。

 でも……うん。やっぱり俺は、俺の知らないところで菜乃花が傷ついていたら、とても耐えられない。

 これは俺のエゴ。

 だからこうして横やりを入れた以上、もう誰にも彼女を傷つけさせない。


「っんでお前までいるんだよ!!」

「声が聞こえたから」


 声が聞こえた、そう声が聞こえたからだ。

 菜乃花の助けを呼ぶ声が聞こえたからだ。

 それは俺に向けられたものではなかったのかもしれない。

 でも、こうして聞いてしまった以上、無関係ではいられない……いや、いたくない。

 俺は彼女を笑顔に──幸せにすると決めたのだから。

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