第19話 私と別れてください

「さ、鷺沼……?」

「うん。鷺沼くん、勝手だけど私と別れてください」


 頭を下げて、そう告げる。

 言えた。やっと言えた。


 …………あれ? 少し様子がおかしい気がする。

 いつまでたっても、鷺沼くんからの反応がない。

 私は下げた頭を、鷺沼くんのようすをうかがうように少しずつあげていく。


 そして、鷺沼くんの顔が視界に入った途端、私は慌ててそらした。

 あまりにいつもに比べて顔が、雰囲気が違いすぎたから。

 言葉を選ばずに言うならば、怖い。

 彼に対してこのような感情を抱くのははじめてだった。

 普段は普通に優しいし、えっちのときも辛いだけで怖いという感情は抱いたことがなかったから。


「……那波か?」

「え……?」


 やっと口を開いたと思えば、鷺沼くんはなぜか玲くんの名前を発した。


「那波になに吹き込まれたんだ……?」

「れ、玲くんはなにも関係ないよ……? これは私の意思だから」

「関係ないわけないだろ。菜乃花がおかしくなったの、あの暴力男と寝取らせしてからだろ」

「おか……おかしかったのは今まででしょ⁉ 玲くんは私を普通に戻してくれたの! それに玲くんは鷺沼くんの思ってるような人じゃない!」


 やっぱり明らかに様子がおかしい。

 鷺沼くんが一歩ずつ一歩ずつ、私に近づいてくる。その雰囲気がどこか恐ろしくて、私は少しずつ後ずさった。


「いや、俺が思っているようなやつだよ。どんな事情があれ、あいつが人を殴るやつにかわりはない。いつか菜乃花が殴られる日がくるかも。だから……な? 俺にしとけって」

「な……ど、どうしたの……? 今日の鷺沼くん、本当におかしいよ……?」

「おかしいのは菜乃花の方だろ? 急に別れようなんて」


 私はいつのまにか壁まで追い込まれていて、鷺沼くんはもう目前まで迫ってきていた。


「急じゃない……! ずっと寝取らせなんてしたくなかった……! 私だって出来ることならのことずっと好きでいたかった……! だから、何度ももうやめようってお願いしたよね? でも鷺沼くんは受け入れてくれなかったどころか、また新しい相手に連絡してて……もう無理だよ、耐えられない」

「……でも、那波ならいいんだよな? 菜乃花から言ってきたんだもんな。これからの寝取らせは全部那波とがいいって」

「……でも私、もうあなたとえっちしたくない。昨日も言ったよね。あなたとのえっちは気持ち良い、良くない以前の問題だって。私、もうこれ以上あなたとえっちするのも辛い……!」


 眼前にある鷺沼くんの顔にむけて、一息で言いきる。言いきらないと、鷺沼くんの圧力できっと言い淀んで、言いたいことがいえなかっただろうから、意地でも言いきった。

 鷺沼くんの顔が歪む。


「……わかった、別れるよ」

「よかった、わかってくれ──」

「その代わり」


 私の言葉を「その代わり」という言葉で遮る鷺沼くん。

 その代わり。

 以前にも鷺沼くんに言われた言葉だ。寝取らせを提案されたときに、言われた言葉だ。


『その代わり菜乃花に他の男に抱かれてきてほしい』


 思い出すだけで頭がいたい。

 今考えても意味がわからない。

 そして今の状況も意味がわからない。

 その代わりってなんだ。普通に別れてそれでおしまい。それ以上でもそれ以下でもないのに。


「寝取らせの動画、全部俺に送ってよ」

「…………は?」


 寝取らせの動画は全部私が管理している。

 これは私が寝取らせをやる上で鷺沼くんに出した条件だ。

 さすがに自分がえっちしている動画を、彼氏とはいえ他人に渡せるほど、私の危機管理能力は低くない。


 今となって、改めて私が管理していて正解だったと考える。

 今の鷺沼くんのもとに動画があったら、お昼に檸檬ちゃんが言っていた「動画の拡散」というものが現実味を帯びてくる。


「だってあの動画、俺たちの共有財産だろ? ゴム代もホテル代も払ってたのは俺だし」

「いや……いやいやいやいや、無理に決まってるでしょ⁉」

「他の誰にも見せないって約束するから。俺、もうあの動画なしにはやっていけないんだよ。俺をこんな身体にした責任とってくれよ。絶対に誰にも見せないから、な?」


 壁に追い込まれた私を、鷺沼くんは両手で壁ドンをし、逃げ道をふさぐ。

 本来であればときめくシチュエーションなのかもしれないけど、今は……怖くて、気持ち悪い。

 絶対に逃がさないと迫る、鷺沼くんの顔が、怖い。

 お腹を掠める、鷺沼くんのかたくなったあそこが、気持ち悪い。


 私の裸では勃たなかった鷺沼くん。

 気づいた。気づいてしまった。彼が大事なのは私じゃなくて、私としていた寝取らせというプレイで。

 私と別れたくないんじゃなくて、寝取らせができなくなるのが嫌なだけで。

 私のことなんてやっぱり全く見ていない。


 本当は二人の話し合いで方をつけるつもりだったけど……今の鷺沼くんはあまりに話が通じない。

 だから──。


「みんな──っ!!」


 お腹の底から隣の準備室にいるみんなにも届くような声量で叫ぶ。

 急な私の大声に鷺沼くんは一瞬狼狽えた。


「急に大声を出してど──ぉっ⁉」

「菜乃花から離れなさいっ!」


 美海ちゃんの蹴りが鷺沼くんの横腹に入り、鷺沼くんの体勢が崩れた隙に、私は鷺沼くんの腕の間から抜け出し、鷺沼くんから距離をとる。

 そして、檸檬ちゃんと凛音ちゃんが私のもとに駆け寄ってきてくれる。

 

「みんな迷惑かけてごめん、二人で決着つけたかったん──あたっ」


 凛音ちゃんが私のおでこにコツンとでこぴんをしてきた。


「誰も迷惑なんて思ってないわ」

「そーだぞっ! 菜乃花はあたしらの友達なんだから、謝罪なんて言わないの!」

「……うん、ありがと」

「いーってことよ!」


 檸檬ちゃんのニカッという擬音がつきそうなほど明るい笑顔。それに私も笑みをかえし、視線を上げた。

 美海ちゃんと鷺沼くんがにらみあっている。


「……んで、なんで美海たちがここに?」

「あんたから菜乃花を守るために決まってるでしょ?」

「守るもなにも、俺たちただ話し合ってただけだけなんだけど?」

「あんな迫り方しといてただの話し合い?」

「説得してたからかな、俺もつい熱くなっちゃって。怖がらせたならごめん、菜乃花」


 鷺沼くんからの謝罪。

 そこに先ほどまでの恐ろしい雰囲気はなく、いつもの笑顔。

 それがなぜだか気味が悪い。


「……ちなみに、説得って言うけどあんたは菜乃花に何を望んだわけ?」

「デリケートな話だからね、部外者には言えないよ」

「菜乃花、何て言われたの?」


 鷺沼くんの目付きが鋭く変わる。私に絶対に言うなと言いつけるように、じっと睨み付ける。

 怖い。

 でも、震える身体は凛音ちゃんと檸檬ちゃんの二人が支えてくれている。だから私は絶対に負けない。


「……別れる代わりに今までの動画全部送れって」


 私がそう言った瞬間。

 教室内の空気が変わった。


「……信じらんない。マジで見損なったわ。行くよ、菜乃花。あんなカスもうほっときな。あれはもう病気だからあんたが気にやむ必要ないわ」


 怒りを隠すことなく、美海ちゃんはそう言い放ち、私の手を引き扉にむけて歩いていく。

 手を引かれている私も、そして凛音ちゃんと檸檬ちゃんも、そんな美海ちゃんについていくように歩き出す──が。


「ちょっと待てよ! まだ話終わってねぇんだけど」

「いっ──……」


 私の美海ちゃんに掴まれていないほうの手を鷺沼くんに掴まれる。

 それも絶対に逃がさないという意思のあらわれか、すごく強く握られていて痛い。


「っ──! 離して!」

「だからまだ──っ⁉」

「菜乃花から手、離してもらえる?」


 背中から聞こえる、安心感を覚える低音。

 いつのまにか美海ちゃんに握られていた手は離されていて、代わりに大きな身体に私は抱きしめられていた。

 私の手を掴む鷺沼くんの手を、背後から伸びる大きな手が力強く掴んでいる。

 見上げると、そこには愛しい人。


「玲くん……?」

「っんでお前までいるんだよ!!」

「声が聞こえたから」


 そう答える玲くんは、とても険しい顔つきで鷺沼くんのことを見据えていた。

 

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