004 姫と魔方陣とルソナ村

「では行きますよ」


ヴェルはユナを連れて家の裏手に回り、古竜の前足あたり、爪と爪の間に開いた洞窟へと進んだ。その奥には光り輝く魔法陣があり、洞窟の壁には古代の文字やシンボルが彫られ、まるで時を越えて漂う神秘的な空気が漂っていた。ユナはこの場所に何度か来たことがあったが、どこかいつも不思議な気持ちになる。

ヴェルはこの古い魔法陣を描いた人物だと言われていたが、ユナは彼女のことをよく知らない。母のような存在であり、教師でもある彼女がユナを育て、導いてくれているが、その出自や過去に関しては謎めいたままだった。尋ねても曖昧な答えが返ってくるだけで、深く掘り下げることは避けられていた。それでも、ユナはヴェルを信頼し、彼女のことが大好きだった。


「ユナ様……こちらを」


ヴェルが差し出したのは、細やかな刺繡が施された白い頭巾だった。刺繍にはユナが見たこともないような複雑な魔法陣が描かれており、それが不思議な力を帯びているように感じられた。


「これで頭を隠してください。万が一、幻影魔法が解けたとしても、この頭巾があれば大丈夫です」


ユナが頭巾をかぶると、ヴェルは手をかざす。光がユナを包み込んだ。その光の中で、ユナの銀色の髪は栗色に変わり、紅い瞳は澄んだ青に変わっていった。銀の角も消え、普通の少女の姿に見えるようになった。


「ユナ様、素晴らしく可愛いです!やはり、ユナ様の可愛さは幻影魔法では隠しきれませんね!」


 ヴェルが頬ずりしながらほめまくる。


「あ、ありがとう」


 ヴェルが興奮気味に語るのを、ユナは軽く無視しながらも微笑んだ。

 ユナとヴェルが暮らす世界は「精霊界」と呼ばれる異空間に存在している。人間たちの暮らす世界とは少しだけ時空がずれているらしいが、ユナにはそれがどういうことなのか、難しくてよくわからない。ただ、数か月に一度、ユナたちは人間たちの村「ルソナ村」を訪れる。村に行商キャラバンがやってくるタイミングに合わせての訪問で、その時ばかりは、ユナが嫌いな勉強や礼儀作法の練習が休みになるのだ。それがユナにとってのささやかな楽しみだった。


「ユナ様」


ヴェルに促され、ユナは彼女の手を握って魔法陣の中へと進む。魔法陣が光り輝くと、次の瞬間、二人は深い森の中に立っていた。緑が茂り、鳥のさえずりがかすかに聞こえる。風がふわりと吹き、二人の髪をなでた。


だが、ふとユナの鼻先を異臭がかすめた。


「……ん?」


ユナは首をかしげ、ヴェルの顔を見た。普段ならば小鳥たちのさえずりや動物たちの気配を感じる森だが、今は不自然なほどに静まり返り、代わりに張り詰めたような空気が漂っている。


「ユナ様、こちらです」


ヴェルがやや緊張した面持ちでユナの手を引き、森の中を歩き出す。足元に気を付けながら進むと、やがて街道が見えてきた。そのまま進めばルソナ村に到着するはずだ。


だが、ヴェルの足は唐突に止まった。


「……これは……まずいですね」


「ヴェル……どうしたの?」


不安げに尋ねるユナに、ヴェルは「ユナ様、こちらに……」と大きな樹の陰へと導いた。その声には、普段聞き慣れない緊張感が含まれていた。

ヴェルは緊張した面持ちでユナを大きな樹の下へ導いた。ユナはヴェルの様子に戸惑いを感じながらも、その指示に従う。


「ヴェル、どうしたの?」


 ユナが不安げに問いかけると、ヴェルは周囲を警戒しながら慎重に答える。


「何か異変が起きています。この森の静けさは、ただ事ではありません」


 普段なら、賑やかな鳥のさえずりや小動物たちの気配が感じられるはずだ。しかし、今はすべての音が消え、まるで森全体が息をひそめているかのようだった。ヴェルの言葉に、ユナはますます胸騒ぎを覚える。


「ユナ様、ここで少し待っていてください。何かが起こっているようです……。私が確認してきます」


「え……ヴェル、一人で行くの?」


 ユナはヴェルを止めたくなったが、彼女の真剣な表情を見て言葉を飲み込んだ。ヴェルはいつも、どんな状況でもユナを守ってきた。そして、彼女の判断に間違いがあったことは一度もない。だからこそ、ユナは不安を押し殺し、ヴェルに任せることにした。


「大丈夫です。すぐに戻りますから、ここで静かにしていてください」


 心配するユナにヴェルは「ユナ様こちらに……」と大きな樹の下へと導いた。


「近くに瘴気があります。ユナ様はここから動かぬよう」


 ヴェルの言葉にユナは頷く。瘴気という言葉にユナの心臓はドキリとしたが、ヴェルの冷静な表情に少しだけ安心した。


「万が一の時は、精霊をお使いください」


 ユナには常に二体の精霊が守護としてついていた。いついかなる時もユナのそばを離れずその身を守ってくれる。風の精霊ソルと緑の精霊グリルだ。


「では、偵察に行ってまいります」


 ヴェルはそういうと姿を消した。ユナは心細くなりながらも彼女を見送った。


「ここにいれば……大丈夫だよね」


 肩に留まったピイちゃんに声をかける。ピイちゃんはユナの頭上を旋回しながら周囲を警戒してくれている。

 しかし、何かを発見したのか、


 ピィ!


 ピイちゃんが一声鳴くと森の奥へと飛んでいった。


「ピイちゃん!」


 ユナの声が届くよりも先に、ピイちゃんの姿は見えなくなった。そして、しばらくするとピイちゃんが帰ってきた。


 ピィ!ピィ!


 ユナの頭上で旋回するとまた森の奥へと飛んで行った。今度は今までのようにではなくゆっくりとした速さだった。


「ついてこいってことかしら?」


 周囲を見回す。ヴェルには動くなと言われていたが、ピイちゃんの様子から非常事態なのだと理解できた。


「ごめんなさいヴェル、すぐに戻ってくるから……!」


 ユナは一言呟くと意を決したようにぴいちゃんの後を追いかけ始めた。

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