第4話 ケンクレアイのフェベ

「それにしても、プリスカ遅いな……」

 マリアは、独り言のように呟きながら、食堂の外をちょっと見てみた。面倒な客の来訪かしら? 今、アキラが不在にしているのをいいことに、訪問販売の人とかが来ているのだろうか。

 プリスカは、以前、招かれざる客の商談を延々二時間にわたって聞きつづけたことがある。よっぽど、人の話を聞くことが好きなのだろう。いつか、グノーシス主義の宗教勧誘の人が来たときなんか、「これは、……相手が悪い」と気づいて帰ろうとする二人の勧誘者をプリスカが引き止めて、

「あなたたちは神を信じますか?」「父と子と聖霊の御名によって、信仰者であると告白しますか?」「今ここで、できますか?」

 と、逆に質問攻めにしたと言う。もちろん、プリスカは、いたずらでやったのではない。彼女自身の信仰心に基づいてのことであった。

 ただ、そのときの勧誘の人が偉いのは、次の安息日、プリスカの家の教会にやってきて、しっかり信仰告白をして帰ったのだとか。


 ──面倒な来訪者なら、助太刀したほうがいいかな?

 マリアは、食堂を出て、回廊沿いにアトリウムを通り過ぎようとした。プリスカに一人で応対させていたら、一日が終わってしまう。マリアだったら、面倒な客は、一言、「うちは結構です!」と追い返す。こういうときは、人それぞれ、持ち味というものがある。 

 日が暮れかかっていた。中庭には夕陽が射して、菜園の植物を金色に染めている。この時間帯の光の色が、マリアは好きだ。やがて夜が来る。しかし、それはけっして寂しい時間ではない。夜は明け、再び朝になる。──光は、つねに闇に勝っている。キリスト者の信仰共同体を形成する兄弟姉妹たちには、夜に対する朝、闇に対する光の優越を信じて疑わない、盤石なる確信があった。夕暮れは、終わりの時刻ではなく、新しい明日に期待するための、安らかなひとときにほかならない。


 と、庭の様子に気を取られているうちに、すぐそばまで人影が近づいてきたのをマリアは見過ごした。一瞬、はっとした。だが、彼女はすぐに、見慣れた友人の姿を認めた。

「どーーーん!! フェベ様おなりやで!!」

 と、こっちが声を発さない前に話しかけてきたのは、ケンクレアイの教会の奉仕者フェベであった。マリアはびっくりした。うれしいびっくりだ。まさか、フェベが来てくれるとは思わなかった。しかも、目の前にいる彼女は、以前とすっかり印象が変わっている。最後にアンティオキアで会ったときには黒髪を長く伸ばしていたのだが、今日の彼女の髪は短い。肩ぐらいまでの長さである。すっかり真新しい彼女が、マリアの目の前に立っていた。

「フェベ、どうして? エフェソに来ていたの?」

「ちゃうねん!! マリアの話を人づてに聞いてな!! ケンクレアイから船とばしてん!!」

 神戸ケンクレアイは港町、明日を見通すポートピア。ギリシャ本土とペロポネソス半島をつなぐ地峡にあり、地中海貿易に出かける船の多くが、そこを中継地点の一つとしている。フェベは、かの地の有力者の娘であり、キリストの教会の奉仕者として、多くの人たちを援助する立場にあった。

「マリア、今回の件、もう聞いたで!! パウロ絶対許せへんな!! この際しっかり×っとこ!! マリアが七回、うちも七回。──プリスカはどうする? 一回ぐらい×ボコっとく?」

 と、後ろから歩み寄ってきたプリスカのほうを振り返りながら、フェベは訊ねた。プリスカは苦笑している。

「ううん、わたしは遠慮しておこうかな」

「そうなん?! なんで?? せっかく合法的に男子×れるのに!! 相手は生来ローマ市民やで!! 市民様を×ボコれる機会チャンス、そうそうないで?!」

 フェベは、すっかり好戦的な雰囲気を醸し出している。全身から、焔のような何かを発しているかのようだ。──彼女が育ったケンクレアイの港町には、地中海のあちこちから、海の男たちが集まってきた。彼らの豪快な性格、嘘を知らない人となりが、彼女を男勝りな性格に育てた。…………などということはなく、フェベはフェベであった。エーゲ海の空のような、真っ直ぐで、単純で、嘘のない純粋さは、彼女の生まれもっての性格といったほうがよい。幼少期から体力に優れ、コリントで二年おきに開催されるイストミア大祭の各種目に乱入しては、正式な出場選手たちの記録を軽々と塗り替えたこともあった。また、最近は、ヘロンの蒸気機関を応用したを駆り、アッピア街道の最速記録を大幅に更新した。「馬をつないでいない何かが、まるで幽霊のように、まったくあり得ないスピードで、タレントゥム−カプア間の街道を走り抜けていった」という目撃証言は、あっという間に、全ローマの各地で話題となった。……もっとも、そのときの記録は、「女だから」という表向きの理由と、「蒸気機関の原理が、同時代の監督官には、まだよくわからなかった」という情けない理由によって、公式に認められるには至らなかったらしい。とにかく、全地上の誰よりも強く、誰よりも速い。それが、ケンクレアイの奉仕者フェベであった。

 フェベは、二人に宣明した。

「うちな、曲がったことが大っ嫌いやねん!! パウロまじ許さん!! マリア、相手が死ぬまで××ボコボコにしような!!」

「あ、いや、……死なれたら、ちょっと困るかな……」

 マリアはすこし弱気になった。さっきまでは、マリア自身、たしかに「パウロ×してやる!」と意気込んでいたのであった。だが、全地最強にして最速の女性奉仕者フェベを本気にさせたら、軟弱者のパウロなんか、ほんとうに、あっさり死にかねない。マリアは、親友たちがそばにいてくれるから、さっきよりずっと冷静になっていた。殉教は結構だが、パウロなんかのために自分に責任が及ぶのはごめんである。ちょっと懲らしめてやりたいだけだ。そうなのだ。パウロのことは。……ともかく、強力な仲間がケンクレアイから来てくれて、心強いことはたしかである。

「ところで、フェベ、──」と、プリスカが訊ねる。「髪を切ったのね」

 すると、フェベは、まだ切ったばかりらしい短い髪をかきあげながら、

「これな、似合うやろ!! 失恋とかやないで!? 誓願!! ケンクレアイで流行ってん!!」

 そして、二人を真近で、真っ直ぐにみつめながら、こう付け加えた。

「ええな!! うちが来てやったからにはな!! パウロの命運はな、──もう尽きたも同然やでッ!!」


 

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