第3話 プリスカとアキラの家の教会
ナザレのイエスこそ、神から遣わされた、私たちの救済者である。神は、イエスの生涯を通して、奇跡、不思議な業、しるしを通して、私たちに救いの道をお示しになられた。──それについては、すでに、多くの民の知るところである。また、イエスに従った十二使徒の言行、そして、イエスの死と復活を経て、パウロをはじめとする初代教会のはたらき手たちが伝道のために邁進した出来事についても、後世の人々は知っている。
だが、まだ明らかにされていないことがあった。イエスが最も愛されたという、第一の使徒、……すなわち、マグダラ出身の才女(?!)マリアの実像について。そして、彼女の親友たちの友情と信頼、たぐいまれなる活躍について。…………
「ぎゃあ!」
と、マリアは変な声が出た。プリスカの別荘の食堂に高らかに掲げられている「
びっくりした! あやうく、テーブルの上の食器をひっくり返すところだった。何とか着地した彼女は、ひとまず安堵した。おしりが大きくてよかった。怪我はしなくて済んだようだ。それにしても、この「節制」は、おもしろい字だな……。
マリアは、平生、興味関心を抱いた対象に、すっかり心を奪われてしまう傾向がある。一たび心を奪われたら、もう、ほかのものは目に入らない。少女だった頃、鉱物や天体に知的好奇心を寄せた、あの頃から変わらぬ傾向であった。彼女は、床の上に無防備に座り込んだまま、あらためて、壁の「節制」をじっと眺めた。
食堂だけではない。プリスカの別荘の壁には、いくつかの書画が掲げられている。それらは、パピルスに中国の筆で書かれているらしい。応接間には、「
普通、ローマ帝国の富裕層の邸宅は、華美を求めて、ふんだんな装飾が施されている。たとえば、食堂には、デュオニソスだとか、ヴィーナスだとかの絵画が掲げてあるものだ。ところが、プリスカの家には、そういった装飾は皆無であった。それこそ、「節制」を基調とする、質素な書画が掲げられている以外には。
この別荘全体のつくりも、どちらかといえば、質素である。空間としては、十分に広い。しかし、余計なものは何もない。中庭は、プリスカの家庭菜園になっていて、イチジクやザクロ、ぶどうが植えてある。彼女自身がお菓子づくりに用いるための、もっぱら実用のための庭である。天使や女神をかたどった偶像のたぐいは、一つもない。
マリアは、プリスカから聞いたことがある。この別荘の建築と内装は、プリスカの父の哲学を反映しているのだ、と。
卓越した実業家であり、帝政ローマの野心的な革新官僚の一人でもあるプリスカの父は、ストア派の思想に傾倒していた。彼は、安定した事業収益を元手として、帝国の社会基盤を改良するための抜本的改革を推し進めていた。彼の思想は、家族の実生活の上にも反映された。ローマに所有している
「これこそ、統治者の住居にふさわしい。ストア派の思想が、そのまま建築されている!」
「すべての政府関係者が、このような政治哲学を持っていたらよいのに」
壁の「節制」の書画を見上げながら、「まさに、プリスカの父の思想が、この文字に集約されているかのようだ」とマリアは思った。
もっとも、ここエフェソの別荘は、事実上、娘プリスカのために用いられていると言ってよかった。父親は、今でもローマにとどまり、ルキウス・アンナエウス・セネカの忠臣の一人として職務を担っている。彼は、帝国の統治機構の内部にありながら、時にクラウディウス帝の政治体制に異を唱える立場として、己の信念を貫こうとしていた。その間、コリントやエフェソの不動産は、娘であるプリスカが管理した。プリスカと、そのパートナーであるアキラ、──後年、ローマ帝国の支配体制を根本から揺るがせることになる、二人の理想を実現するための場所として。
二人の理想。
──それは、すべてのキリスト者が自由に集まる、愛と信頼に基づく共同体、言わば、家の教会を運営することであった。
と、ぼんやり考えていた、その時。背後で笑い声がした。マリアが振り返ると、台所で作業していたお手伝いの女の子たちが、クスクス笑っている。
……しまった。見られていたんだった!
マリアは、自らの多動な振る舞いをすこし恥じた。いつもの癖で、一つのことに気を取られると、もう、ほかのことは目に入らなくなる。彼女は、照れ隠しに笑い返しながら、立ち上がり、衣服を整えた。
「マリアさん、今日は何を発見したんですか?」
と、お手伝いさんの一人、ビルハが訊ねた。その隣で、ジルパとハガルが可憐に笑っている。三人はもちろん、何にでも興味を示すマリアのことをからかっているのである。マリアは顔を赤くしながら、応えた。
「あは、……あはは……。『節制』を見てたの。良い言葉だなと思って」
「お菓子はまだまだありますからね。節制しなくていいですからね」
と、ジルパがふざけて言った。これは参った。ぐうの音も出ない。マリアは、「あはは……ごちそうさま」と言いながら、頭をかくしかなかった。
この家では、お手伝いさんと、プリスカの家族、訪問者は、全員が対等な立場である。顔を合わせて、同じ目線で会話をする。人と人として、互いに接する。冗談だって言い合う。それが基本なのである。
普通、ローマの富裕層の家では、食堂と台所は仕切られている。それは、
プリスカ自身、料理を趣味としているから、日頃、お手伝いさんと親しく接している。そればかりではない。この家には、そもそも、奴隷的労働を強いられる人は、一人もいない。名目上のことではない。この家で働いているお手伝いさんたちは、プリスカの家族一同の政治的信念に基づき、あらゆる奴隷的扱いから解放されていた。
そう。この家は、共和政末期から急速に勢力を増しつつも、帝政期には「ローマの平和」の下で抑圧された、奴隷解放運動の推進者の秘密基地にほかならないのだ。プリスカの父は、ストア主義の理念、──というよりも、彼自身の実存を賭けた決意に基づき、奴隷の非人道的扱いを永久に放棄した。そして、プリスカとアキラは、キリスト教信仰と友愛の精神によって、コリントとエフェソの家をキリスト者たちの自由な集会所にした。父と子と、娘婿。立場はすこしずつ異なれども、彼女たちは、実生活の上に、自らの信念を体現していた。
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