演奏会用練習曲
増田朋美
演奏会用練習曲
暑い日であった。こんなときに繁盛する店なんて、鰻屋さんくらいなもんだろう。それほど暑い日であった。まあ、今年の夏も又暑いと言われて久しいが、こんな暑い日になったのは、いつくらいなのかなと思ってしまうくらいであった。
杉ちゃんと、ブッチャーが、一生懸命水穂さんにご飯を食べてもらおうと、奮戦していたその時。
「こんにちは、ちょっと時間早いですが、来てしまいました。暑いですから、中にはいってもよろしいですよね。外に出っぱなしで、熱中症にでもなったら困りますもんね。ああやっぱり、山の方は涼しくて良いな。こっちに来ると、涼しいなって気がするんですよ。」
といいながら、汗を拭き拭きやってきたのは、桂浩二くんであった。それと同時に、
「お邪魔いたします。」
と、まだ変声期前の、小さな少年の声がして、製鉄所の中に上がってくるのかと思ったら、そのような音はしなかった。浩二くんに続いて入ってきた少年は、車椅子に乗って移動していたのである。
「えーと、お前さんのお名前は?」
と杉ちゃんがいうと、
「佐藤と申します。佐藤正男。よろしくお願いします、右城先生。」
と、少年は丁寧に頭を下げた。水穂さんも右城先生と呼ばれてしまうと、しっかりしなければならないと思ったようで、布団の上にあらためて座り直した。
「ハイ、佐藤正男くんね。それでは、今日は、水穂さんに何のようなの?」
杉ちゃんが聞くと、
「はい。桂先生に、右城先生のレッスンを一度受けたほうが良いと言われまして、ここへこさせてもらいました。先生、どうぞよろしくお願いします。」
と、正男くんは、丁寧に答えたのであった。
「レッスンと言っても、曲はどうするんだ?なにかやりたい曲でも持ってきただろうな?」
杉ちゃんがいうと、
「はい。あの、ピエルネの演奏会用練習曲を持ってきました。」
と正男くんは答える。
「ピエルネ?聞いたこと無い作曲家だねえ。一体どこのやつなんだ。それに演奏会用練習曲なんて、ただのつまらない曲に決まってらあ。」
杉ちゃんがすぐに言った。ブッチャーも、全然わからない作曲家だなという顔をした。
「実は、僕もあまり詳しく知らない作曲家で、辞書で調べてみたけど、全然出てこないんですよ。だけど、聞いてみると結構面白い曲で、よくこんな曲を見つけてきたなと、感心してしまったんですよ。」
浩二くんがそう説明すると、
「ガブリエル・ピエルネのことですね。フランスの作曲家です。ピアノの世界では確かに有名ではありませんが、オーケストラなどの世界では、私の愛しい人たちのアルバムとか、よく上演されています。」
水穂さんが、音楽家らしく言った。
「そうなんだねえ。じゃあ、早速そこのピアノで、一曲弾いてみてくれ。」
杉ちゃんがそう言うと、ブッチャーは、正男くんの車椅子を押して、ピアノの前に座らせてあげた。正男くんはありがとうございますというと、ピエルネの演奏会用練習曲を弾き始めた。確かに、超絶技巧を駆使した作品であることは疑いない。和声的には、あまり複雑なところはないが、右手のアルペジオなどは、結構難しいと思われる。そうかと思えば、オクターブで歌わなければならないところもあり、その切替が又大変なところもあった。最後は派手なオクターブによるカデンツァを聞かせなければならないが、これを叩きつけて弾いてしまうのが結構若い人に多い。しかし、正男くんは、そのような汚い音は出さず、最後まで美しい響きで弾くことができた。
正男くんが弾き終わると、杉ちゃんたちは拍手してその演奏を暖かく迎えてあげた。
「おおなかなかやるじゃないか。十六分音符を飛ばすことなくよく弾けたな。あとはそうだな、もうちょっと乱暴すぎず、穏やかに弾くともっと良いことになると思うよ。これからも頑張りや。」
「なかなか演奏技術もありそうだし、音楽性もなかなかあって、いい感じの演奏でしたねえ。」
杉ちゃんとブッチャーは、そう言い合った。浩二くんも、
「そうそう。グランドピアノでは、悪い癖がもろに出ちゃいますからね。それに、このピアノはグロトリアンのピアノですから、結構繊細ですし、ぶつけたりすると、それがもろに出てしまいます。」
と、正男くんに言った。
「グロトリアンってなんですか?」
正男くんが子供らしく聞くと、
「ステインウェイの兄弟弟子が起こした、ピアノメーカーだ。本当はスタインウェイという名称は、グロトリアンが名乗るべきだったんだけど、ヘンリー・スタインウェイと、名前を巡って裁判して、結局負けてしまったんだ。だから、音色的にはスタインウェイと変わらないということになるよ。」
杉ちゃんが解説した。正男くんは大変びっくりしてしまったようで、そんなピアノで弾かせてもらったんだと言う顔をした。
「何、ちっとも恐ろしがるようなことじゃないよ。ただ高級なピアノメーカーであるだけで。少なくとも、ヤマハのピアノよりはぶっ壊れやすいと思うから、気をつけろといいたいんだよ僕は。」
と、杉ちゃんはカラカラと笑った。
「水穂さんは、なにか感想は無いのかい?特に無いのかな?」
杉ちゃんは、水穂さんに目配せする。
「そういうわけですから、右城先生、彼にレッスンしてやってくれませんかね。足が悪くてもここまで弾けるんだから大したもんだと思って上げてくださいよ。一生懸命練習して、ここまでうまくなるという努力家でもあるんですよ。」
浩二くんがそう言うと、水穂さんは細い声で、
「いえ、それは無理だと思います。もし、一生懸命努力していくんだったら、それは他のものに使ったほうがいい。障害者である方が、ピアノ弾くなんて、ちょっと、つらすぎるというか、酷すぎる。」
と言ったのであった。
「又そんな事言って。水穂さん、そうやって相手のことを否定しないでやってくださいよ。彼は、一生懸命練習してきたんですよ。それは、ひどすぎるなんて言わないで、褒めてあげるべきじゃないですか?」
ブッチャーがそう言うが、水穂さんは態度を変えなかった。
「いえ、それは違います。何よりも、正男くんのような方は、まずはじめに自立するための知識や称号を身に着けないとね。そのためには、一般的な路線から外れてしまうことは絶対に行けないんです。それを間違えてしまうと、本当に社会でやっていけない人間になってしまう。それでは正男くんの人生が台無しです。人生で一番いけないことは、年長者に頼って生きていくことでしょう。それをしないようにするために、できるだけ一般社会から切り離さないで生きることが大事なんですよ。ピアノ練習している暇があるのなら、勉強したほうがいいって、言われたりすることもあるでしょうし、好きなことをしていられていいねと妬まれていじめられることだって、十分考えられる。だから、身分に応じた教育を受けて、身分に応じた人生を送るべきなんです。そのほうがきっと、ご家族も喜ぶのではないかと思います。」
「そうなんでしょうけどね、水穂さん。」
ブッチャーは、思わずそう言ってしまった。
「でも、ここまで彼がやってきたことを褒めてやるべきなんじゃないかと思うんですけどね。こんな難しい曲よく練習してきたねとか、そういうことを言ってあげるべきなんじゃないんですか?そうでないと彼が可哀想ですよ。だって、こんな難しい曲、俺達は逆立ちしてもできませんもの。そうですよねえ。」
「そうですよ。それに、長年音楽に関わってきた右城先生が、どうして自分のしていることを否定的に言うんですか。それは、おかしいと思いますけどね。」
浩二くんも続けてそういった。
「僕は、右城先生みたいな演奏がしたかったから、会社をやめて、ピアノの道へ行ったんですよ。それなのに何で、そうなるんですか。僕は、そういうところがよくわからないな。」
「そうですね。そうやって、音楽し続けてきたからこそ、そういう答えが出るんです。音楽は身分の高い人のやることであって、僕みたいな賤民のような人間がやるべきじゃない。それを無理してやると、こうなるんですよ。誰かの助けを得られなければ行けない体になるんです。そうなったら、人生はおしまいです。そうなる前に、手を切らないとね。」
水穂さんは、浩二くんやブッチャーの話にそういったのであった。
「賤民ねえ。今はそういう事言っていいもんですかね。俺、そうは思わないけどなあ。それを言うなら、なんで水穂さんが身分が低いということになるんですかねえ?俺は、体や心に悩み事を持っていればみんな誰でも同じだと思っているけど、違うのかなあ?」
ブッチャーは、首をひねってそういうが、
「いいえ、須藤さん。人間はどうしても相手と比べて、自分より相手のほうが良くなると面白くない動物だから、そういう、低い身分を設定しないと生きていけませんよ。」
と、水穂さんは言った。
「まあ歴史上はそうなのかもしれないですけどね。今は、法律で同和問題にまつわる差別は禁止されています。ましてや、新平民という言葉も死語ですよ。それでですね、右城先生。実は今回、彼に発表会に出てもらおうと考えているのですが。もちろんこの曲でですよ。どうでしょうか。それは無理だと思いますか?」
浩二くんは水穂さんに言ってみた。
「もちろん、身分が低いから出ては行けないんなんて、言わないでください。僕は、専門家になれなかったとしても、将来いい思い出になると思いますので、発表会に出させてあげたいのです。先生、将来のことは、いつかは考えなければならないとは思いますが、今彼は、今のことを楽しませてあげてもいいのではないかと思うんですよ。多分きっと今を充実させることが、一番大事だと思うんですね。ほら、災害が起きて、何もなくなってしまって、そのときにやっておけばよかったでは遅いですからね。先生どうでしょうか。それとも、やはり、先生はピアノから退くべきでだとお考えですか?」
水穂さんは、浩二くんに言われて、少し考え直してくれたようで、
「でも、ピアニストはある意味では大道芸人と近いものがあることは、覚えておかないといけませんよ。ときには、相手に笑われたり、バカにされたり、そんなものやるなって諭されたりすることもある。それで、体を損なうこともある。それまで意思を曲げないで、やり遂げることができるというのだったら、やってもいいでしょう。」
と言った。
「おめでとう!交渉成立だ!ばんざーい!」
杉ちゃんがでかい声でそういったため、ブッチャーも浩二くんも拍手をした。
その日から、水穂さんが、正男くんにピアノのレッスンをすることになった。正男くんは、浩二くんと一緒にやってきてくれて、しっかり水穂さんのレッスンを受けてくれる。ちゃんと、演奏会用練習曲をきちんと弾きこなすだけではなく、強弱などもつけられるようになった。又、全部の音がうるさいという奏法だけではなくて、上の音だけよく響かせることもできるようになった。
その日も、水穂さんと一緒に、正男くんはピアノのレッスンをしていたのであるが、又製鉄所の玄関ドアがガラッと開く音がして、
「水穂!いるか!今日は暑いなあ。本当に豚の丸焼きになりそうな暑さだよ。ほんと、なんとかしてくれって感じだよね。」
といいながらやってきたのは、コンダクターの広上麟太郎であった。
「ああ、広上さんどうしたんですか。又、こちらを引っ掻き回しに来たんですかね?」
水穂さんがそう言うと、
「そんなわけじゃないけどさ。それにしてもお前、やっと弟子を取って教えようと言う気になったな。よし、俺の前で弾かせてみろ。お前の教えの成果を俺が見てやる。」
麟太郎は、ピアノの前であぐらを書いて座った。水穂さんは怖がっている正男くんに、
「大丈夫ですよ、この人は、指揮者だけど、忘れ物が多くて、みんなを困らせることで有名なんですから。」
と優しく言って、先程の演奏会用練習曲を弾いてご覧と言った。正男くんは恐る恐るピアノに向かって弾き始めた。演奏が始まると、広上麟太郎の顔つきが変わってきて、それまでの何処か抜けていた顔から、急に真剣な目つきになった。曲が終わりに差し掛かる、カデンツァを弾いたときは、もう目を丸くしていたくらいだ。
「おおー!すごいすごい!それならぜひ、俺達のオーケストラで、演奏してよ。俺達、人手不足で困っているところだからな。」
麟太郎は拍手をしながらそういった。
「そんなに人が来ないんですか?」
水穂さんがいうと、
「来ないとも。団員が集まらなくて、団存続の危機的状況であることは変わりないよ。だからぜひ、俺達のオーケストラで演奏してもらいたいな。音大に行ってるとか、行ってないとか、そんなことは関係ないんだ。俺達は、演奏が上手ければどんな経歴だっていいんだよ。それより、美しい音楽を奏でてもらうことが大事だからね。なあどうだ?ここは一つ、運試しのつもりでさ。演奏会に出てもらえないかなあ?」
麟太郎は、そう正男くんに甘えるように言った。
「なんですか広上さん。そうやって、すぐに何でも自分の思い通りになると思ってるんでしょうけど、世の中そうは行きませんよ。そうならないのが幸せだってこともあるんです。それに、彼は歩けないわけでもあるんですから、そこに配慮してあげないと。」
水穂さんはそう麟太郎を止めたのであるが、
「いや、歩けないのは、返っていい武器になる。それを逆手に取って、集客の材料にすることだってできる。そういう演奏家もいっぱいいるじゃないか。目が見えないとか、歩けないとか、そういうことを売り物にして演奏活動しているやつはいっぱいいるでしょう。だから、今の時代は大丈夫なの。なんでもありなんだから!」
と、麟太郎は言うのであった。
「広上さんは、身分が高いから、そういうことが言えるんです。それは、他の人には当てはまりません。それに、彼のような人に、そんな夢みたいな話、できるわけが無いでしょうが。」
水穂さんがそう言うと、
「やってみなくちゃわからない。じゃあそこの少年さ。この協奏曲をちょっと弾いてみてくれ。」
麟太郎は、カバンの中から楽譜を一冊取り出した。ショパンのピアノ協奏曲一番である。
「もう俺、こればっかりやらされるの嫌なんだよ。他のやつを振りたいと思うんだけど、それは、客が許してくれないしね。だから、指揮者も、ある意味客商売だって思うわけ。だけど、そこの坊やがいてくれれば、又仕事も楽しくなるぞ。ちょっと弾けるところまででいいからさ、弾いてみてくれるか?」
麟太郎に言われて、楽譜を受け取った正男くんは、楽譜をちょっと見て、ショパンのピアノ協奏曲の冒頭部分を弾いた。でも、手が小さすぎてうまく弾けなかった。水穂さんはほらと言う顔をしたが、
「いやいや、まだまだ可能性はある。水穂、お前みたいな優秀な指導者がいて、こいつをちゃんとしたピアニストまで導いてくれれば、いつかうちのオーケストラとやれるかもしれない。だから、お前もな、ずっと寝たきりの生活ではだめなんだ。ちゃんとご飯を食べて、しっかり薬とかも飲んでさ。それでなんとかするようにしなくちゃ。俺達は、まだ終わったわけではない。いつまでも続いていくことを、考えないとね。」
と麟太郎は言った。水穂さんは、
「そうですか。」
とだけ小さな声で言ったのであった。
「じゃあな、坊や。俺は、お前がちゃんと教育を受けて、いつか俺達のところに来てくれることを、楽しみに待っているから。これは、俺との男の約束だ。俺、忘れ物が多いけど、それだけはずっと忘れないから。又会おう。」
麟太郎は、そう言って、正男くんの前に右手を差し出した。正男くんが小さな右手を差し出すと、麟太郎は、それを強く握り返した。水穂さんはどうしてこうなってしまうのだろうと言う顔をしているが、正男くんは笑顔だった。
それと同時に、麟太郎のスマートフォンがなった。麟太郎が出てみると、楽団員の一人からの電話で、練習会場に楽譜を忘れていったので、取りに来てほしいという内容であった。麟太郎は、ポンコツ頭で困ると言いながら電話を切り、
「じゃあ、今度だぜ!必ず会いに来てな!」
と言って、製鉄所をあとにした。
「あーあ、全く、広上さんも困りますね。人の人生めちゃくちゃにするような発言を平気でするんだから。」
水穂さんは大きなため息をついた。もうすでに、疲れ切ってしまっているらしく、
「ちょっと座らせてください。」
と、正男くんに言った。正男くんがどうぞという前に水穂さんは倒れるように座り込んで咳き込んだ。それと同時に又少し血が指を汚した。それを聞きつけた、杉ちゃんがやってきて、
「あっれまあ。広上さんに、スカウトされて、大スターになれると思ったのになあ?」
と、からかい半分で言った。それどころではなく咳き込んでいる水穂さんに、杉ちゃんはもうなんでこうなるんだとかいいながらも、水穂さんに吸飲みを渡して、中身を飲ませてやった。ようやく、咳き込むのも止まってくれた水穂さんに、
「こういうわけだから、お前さんだって、完全に世の中から出ていけと言われてるわけでも無いんだぜ。こないだの発言、あれはまずいと思うよ。それよりも、こいつがせっかくレッスンに来てくれてるんだから、もっと自分の体を治して、なんとかするようにしようぜ。」
と杉ちゃんは、言い聞かせた。水穂さんは、小さな声でごめんなさいといった。
「おじさん、悪くないよ。ごめんなさいなんて言うもんか。」
と、正男くんがピアノの前に座ってそういった。そして、正男くんは、又演奏会用練習曲を弾き始めた。それは、やはり、ちょっと大変そうではあるけれど、でも、上手な演奏だった。それだけは揺るぎない事実と言えるかもしれない。もちろん正男くんが努力したのもあるけれど、それだけでは獲得できないなにかがこの演奏にはある。
杉ちゃんが、水穂さんに、苦笑いしてこういうのだった。
「少なくとも、こいつをここまでうまくさせたのは誰かなあ?」
演奏会用練習曲 増田朋美 @masubuchi4996
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