第5話 顔

廻茱が授業に来るというその日、帯孔(たいこう)は腹の虫が収まらないでいた。

(チッ…あいつが来んの何ヶ月ぶりだ?)

教室にはびっしりと穢児達が詰め込まれ、とってつけたような机と筆を前にしている。その穢児共のどれもこれもが、いつもとは違う不安気な面持ちだ。

(くそっ…俺様もいるのに…!)

帯孔だって穢児舎では廻茱と同じ人間の混ざっていない純粋な穢なのだ。純正の穢は廻茱と帯孔だけなのだから、廻茱ばかりではなく自分だって同じように畏怖されるべきなのに。

(あの野郎ばっかり注目されて。気にくわねぇ)

教室の入り口に、廻茱が立った。骨と皮だけの穢児達の中で、艶と張りのある肌とさらさらと揺れる薄紅の髪。姿勢良く静謐な出立は他の穢児とは一線を画しており、もはや神々しさすらあった。

彼が部屋に一歩踏み入れた瞬間、空気がひりつき、穢児達は張り詰めた面持ちで、一心に目を合わせぬよう頭を垂れた。

彼を見ているのは帯孔だけだった。

(気にくわねぇ)


俺は久しぶりにあてがわれた席に座った。

古風な部屋は庭に面した襖が解放されていて、その点では聖苑の教室と同じなのに、様子は全く違うものだ。重くひりついたその空気の中では、粗末な机や筆記具でさえ恐怖に支配され怯え竦んでいるようだった。

躾師と呼ばれる躾役の男と、技師と呼ばれる懲罰役の男がそれぞれ二名ずつ部屋に配置されている。

躾師はまず、用意された紙に自分の名を書くように告げた。

『廻』と書くと、リィーーーーンッとカグの音が響き、穢児達がびくりと体を震わせ硬直する。躾師は頭上から侮蔑と嘲笑を込めて俺に言葉を投げかけた。

「違うだろぉ」

一呼吸。息を止める。俺が筆を取り直すと、躾師は耳元に口を寄せて、一層愉しんで言った。

「お前の名前は、『穢』れた、肉『腫』、だ」

紙の上では廻という字が次の文字を待っていた。筆を取り、持ち直す。紙に毛筆を沿わせ、横一文字に薙いでいく。『茱』を描き終わる前に、躾師が恫喝し、机を蹴り飛ばした。

「止めろクソがっ!!!!」

激しい物音に、穢児の隙間からひっ…という悲鳴が漏れ出た。

「あ?」

躾師は鬼の形相で振り返る。

「どいつだァ?騒ぎやがったのはァ」

躾師は犯人探しを始める。

床に舞い落ちた紙の上から、少し碧みがかった墨汁の、書きかけの『廻茱』という文字が見上げている。自然に、嫌な気持ちなく引き込まれる。あの頃に。

日を透かした青い葉が揺れて、白く輝く庭には光の子らが踊っていた。

「廻茱」

鞠を持ったまま振り返る。

艶やかな黒髪が風に靡いている。

白魚のような指は『廻茱』と書かれた紙を手渡した。

「穢れた肉腫だなんて、呼ばせない」

柔らかい唇が弧を描き微笑む。

「今日からあなたは、『廻茱』になる」

白い手とその紙の上で、金の光が笑うように、祝うように、ひらひらと煌めいていた。

激しい衝撃と共に躾師が俺を蹴飛ばし、俺は庭の砂利に叩きつけられた。身を起こすと、目の前には死にそうな顔をした子供が一人、這いつくばっていた。ぶるぶると震え、腰を抜かし立てずにいる子供をぼんやり眺める。躾師が言い放つ。

「お前達に罰を与える」

躾師が俺たちを指差すと、技師二人は彼らに寄り添うように並び立つ。

「戦え。一撃喰らった方に、技師が更に追撃する」

そこは白く輝く庭だった。

柔らかく薫る風と、踊り舞う光の子ら。

体がふわふわと浮くような、揺らめく感覚。

白磁のような、それでいて柔らかなかんばせ。

ふくよかな口元が空気を食む。

「この茱萸の木の下で、あなたと何度でも廻り会うーー…」

光舞う銀の庭の中、風はさあっと舞い上がり、花びらと共に頬を撫でた。

「お前らもよく見ておけ!!人間様に逆らったら、どうなるかをな!!!」

技師たちは一足飛びに俺と子供の脇に飛び出て、身の丈ほどの大きさもある、10キロはあるだろう重たい杭を、それぞれ相手の子供めがけて正に槍のように貫かんと構え、その四肢に力を込める。

「死んじゃうんじゃない…?」

教室の中からはどよめきが聞こえる。

「廻茱が勝つに決まってるじゃん…」

「あの子、死んじゃうよ…」

「あんなので刺されたら…」

躾師は尚怒りカグを鳴らして子供達を黙らせる。

俺は相手の子供を見た。もう、今にも全身がばらばらに崩れてしまいそうにぶるぶると震え、恐れに引き攣った顔は幽霊のようだった。

「…………」

俺の胸には虚空が宿ったようだった。どれほどそうして子供を見ていただろう。躾師は退屈そうな声をあげる。

「なんだ、やらないのか」

目の端で彼が、片手を上げたのが見えた。俺の隣の技師はグッと足を踏み込み、子供に狙いを定めた。

貫かれることを悟った子供は、真っ白になった顔を歪め、「死にたくない…まだ死にたくない…」と呟いた。その様を、俺はただぼんやりと眺めていた。

「死にたくない…っ」

ガタガタ震え、狙いの合わない手で、それでも手近にあった石を拾い、化け物の形相で叫んだ。

「お前が死んでよ!」

彼の投げた石は、こつんと俺の腹に当たる。瞬間、腹に穴が空いた。我が意得たりと相手の技師が投げた杭は俺の腹を見事に貫いた。そのまま俺は後ろに倒れ込む。相手の子供の、恐怖に染まった息を呑む音が聞こえた。

顔が。見えない。あの子は今、どうなっている?静寂が続く。すると、痺れを切らしたように躾師が急かす。

「次は?」

あの子はどうなった?見えない。

「次は穢腫か?」

俺はゆらりと起き上がって、彼の顔を眺める。腹に杭を刺したまま、幽と起き上がり彼を見つめる俺を見て、彼は信じられないものを見たかのように怯えて、脱力した。しかし、段々と彼の様子が変わる。落ち着きを取り戻していく。肩がいかり、ぶるぶると震える全身に力を必死にこめる。そして、彼の中で、何かがカチリと変わるのが分かった。

次の石は腿に当たる。彼の瞳から歪んだ覚悟が伝わる。この化け物を、自らの手で殺すのだ。

技師は新しく用意された杭で俺の胸を貫いた。二本、自重のある長い杭を体に埋め込まれて、さすがに一歩、二歩とよろけた。愉快に満ち溢れた躾師の笑い声が聞こえる。胸と腹から流れ出た血が衣服を濡らし、俺がよろけた先の地面でぽつりぽつりと赤い円を描いている。躾師が教室の子供を促すと、作り笑いがさざなみのように広がった。

………なあ。

……………聖苑。

こんな場所で。

こんなときに。

お前ならどうするんだ?


『必勝法がある』


今迄聖苑の考えは読めていた。

それで勝負にも勝ってきた。

なのに、どうして思いつかない。


『相手と思考を同じくすることだ』


聖苑の考えをこの俺が再現できないはずがないのに。


躾師に促された子供達は一層激しく声を上げる。喧しいその喧騒を応援歌とするかの如く、目の前の子供は目をカッと見開いたまま歪に口角を上げ、大きく振りかぶって石を投げた。


杭は俺の顔から後頭部までを一気に貫いた。


俺は深く深く、泉に沈み込むように静かに落ちていくような感覚を覚えた。腹には重力を持った納得を抱えていた。


けたたましい恐怖に満ちた笑い声の軍勢。罪悪感と自責に目を背け、自分より強いものを殺せるという陶酔で繕った心で誰かを殺そうとする子供。


『現に俺は、勝っている』


ああ…そうか。

俺がお前の思考を追えるわけがなかった。

だってお前はこんな場所を、知らないものな。

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