第3話 授業

俺は手狭な壺の中で気配を殺している。心臓は軽く跳ねている。体も軽い。これは俺の勝ちだ。聖苑(せいえん)が授業を受けている最中、その部屋の壺の中に隠れた俺が先生に見つからなければ、俺の勝ちなのだ。

穢の俺の気配遮断能力は誰にも破れない。頬が緩んだそのときだった。

低い声が降ってきた。

「エシュ、出ておいでなさい」

最悪だ。なぜ見つかった。しょうがないから少しだけ頭を出してやるけど。

「この俺が見つかるなんておかしい…」

「っははははは!僕の勝ちだ!」

弾かれたように聖苑が笑う。腹が立ってかあっと顔が熱くなった。俺は壺を抜け出て聖苑に叫ぶ。

「告げ口したな!」

「もう!してないよ!」

先生と呼ばれる老人は諦めたように目を瞑り、種明かしをする。

「勝負のことを女中に伺いました」

「女中の告げ口は正当な勝負じゃない!!」

「負け惜しみ?カワイイこと言うね」

からかう聖苑にかましてやろうとしたとき、老骨めが邪魔をした。

「皇子殿下。授業中ですよ」

聖苑は眉根を少し寄せ、目を細めて老人に向き直った。

「煌月院の第二の仕事は?」

聖苑は目をまた少しだけ細めて鋭くする。

「もう知ってます。いらない講義だ」

「いいえ、必要な講義です。そう、第二の仕事は穢(ケガレ)の討伐ですね。しかし、数年前から、人手不足解消のため、人と穢を混ぜ、人より高性能の穢児(エジ)という存在を作る計画が進んでいます。穢は人間のために利用するのが難しい存在なので、人間と混ぜているのです。エシュとタイコウだけは別ですが…。しかして」

老骨の問いに、聖苑の姿勢が変わる。張っていた胸を少し引き、肩をいからせる。頬と眼輪に力が入る。眉を引き上げ、しかし目は鋭く尖らせたままだ。

生き物は戦闘を想定する時、体勢を変える。聖苑の動きは正にそれだ。聖苑は戦闘の意思を持っている。しかし…大人、しかも教師役に歯向かうことは、皇子であれそう歓迎されることではないどころか、立場を悪くするだろう。俺は少し胸に気持ちの悪いものを感じた。

「穢とは、人智を超えた超常現象を起こす災厄です。都市を一晩で壊滅させる怪力や、呪術・異能を操る個体もいるとか。また穢はそこにあるだけで周囲に災いをもたらします。人間にとって、穢は討伐すべき災厄なのです」

聖苑は相変わらず姿勢を変えず、臨戦体勢のままでいる。

「皇子、エシュをごらんなさい」

老人の声に、ゆっくりと聖苑が振り返った。

「これが穢です」

眉根を寄せて不服そうにしているが、彼の目には何か力があった。胸の辺りを穿たれたような気になる。しかし、不快ではない。聖苑は公正な人間だ。清廉潔白で、常に真実と正しさを是とする。彼の瞳は俺を審判しているのかもしれない。そしてその審判で、俺は悪ではないのだろう。俺を悪だと断じる老骨とまた小競合うかもしれない。

老人は続ける。

「エシュの能力は怪力と鬼化のみです。しかし、生まれたてのこれを捕縛する際に、煌月院は熟練の戦闘員を26人も犠牲にしました」

老人は聖苑に懇願する。

「皆が怯えているのです。その怪力と、彼による災いを」

「…………」

心臓が跳ねる。聖苑から、何かピリついたものを感じた。

「皇子殿下が良ければ良い、という話ではないのです。宮の皆のことをお考えください」

「…話はそれだけですか」

ダメだ、と思い「聖苑!」と呼んだが遅かった。

「弁えよ無礼者!!」

聖苑の激しい一喝は空気を絶った。

ああ、いけない。そんなふうにしてはいけない。

聖苑の目は吊り上がり、爛々と光っている。全身に力を漲らせて、彼は老人に矢継ぎ早に怒鳴りつけた。

「26人殺害…?生まれ落ちてすぐ猛者に襲われ、抵抗しない方が不自然だ!!いいか、煌月院が死んだのは単純な実力不足だ!彼の悪意では断じてない!!彼が悪意を持ってその怪力を振るったことがあったか!!?危害を出したことは!!?貴様は答えを知っている!!!!」

やめてくれと願うが彼は止まらない。正義の炎を心に燃やした彼を止めるのは難しい。どうか、俺なんかのために立場を悪くして、嫌な思いをする火種を作らないでほしい。だがどこかで、心がふわりと軽くなった。

「周囲に災いを振り撒く?証拠を出せ!僕と廻茱が遊び始めて二年だ。いつどこにどのように、なぜ廻茱のせいだとしか断言できないような災いが起きた!!」

聖苑が笑顔を歪ませる。

「少なくとも僕に災いは起きていない!廻茱に出会ってから単調だった日々は変わった。時に楽しく、時に悔しく毎日を過ごして。少なくとも…僕は!幸せだ!!」

息を呑んだ。

「真実を見ず、煙のような噂で不安を生み人を傷つけるのは貴様らだ!それは愚者の行いだ!!」

分からない。正体不明の落ち着かなさ、浮つきがある。いや、今はそんなことはどうでもいい。聖苑を止めなければならなかった。

「やめよ、そなたの立場が…」

「自分が虐げられているのに、友の心配か」

聖苑はキッと正面の老人をを睨みつけ高らかに叫んだ。

「この者の行いこそ人の行い!」

左手を真横に大きく振り、決定的に怒鳴りつけた。

「穢、人間、そのような垣根を作りそれに惑わされていること自体、愚かなことと思い直せ!」

なんだかぼうっとする。一つ、紗の布を隔てた先の世界のように見える。怒る聖苑は、白く光って見えた。

「私は貴方を…」

「黙れ。凡夫に用はない」

老人に冷たく言い放ち、彼はまだぼんやりしている俺の手を引いて部屋を立ち去った。


「聖苑っ…」

聖苑は庭の隅まで来てやっと歩みを止めた。どう言って良いのか分からなかった。

ただ、俺は。

「俺は…」

俺は、自分のことで聖苑が身を削るのは避けたかった。

「俺のせいで、お前の立場が危うくなるのは…」

突然、聖苑が俺を抱きしめた。

息を呑む。

柔らかな手つきで頭を優しく肩に押し付けられると、鼻腔に上品で穏やかな香りが広がった。

「お前のためじゃない」

俺は頭が熱くなって混乱してしまう。聖苑は正義の人だ。俺のためだけに怒ったわけじゃない。世のあり方に怒ったのだろう。でも、それでも自分は『廻茱』がきっかけで何かが起きることが怖くて。そうやって考えていると、聖苑の暖かい体温や芳しい香り、手のひらの柔らかさなんかがごちゃ混ぜになって、俺はもうなんだかよく分からなくなってしまう。

どうしたら頭がちゃんとするのか分からなくて、たまらず聖苑に願う。

「は、離してくれ…」

すると、聖苑はまっすぐに誠実にこう言った。

「どうして?君が強くて美しかったから、こうしたくなった」

なんだかそれは、恥ずかしいことのようだった。聖苑は誰にでも、時折こうやって素直に人を褒めるのだ。これを食らうとどうにも恥ずかしく身の置き場がなくなる。

東の方角から、リーンリーンという聞き慣れた音が聞こえた。全身が総毛立つ。脳天から、指先から、足先から、マムシに巻き付かれるような、吐き気を伴う気持ち悪さがある。

カグの音だ。

カグとは、穢児舎(えじしゃ)で煌月院(こうげついん)の人間が持っている携帯式の楽器だ。穢児(えじ)が人間の言いつけを守れないと、彼らはカグを鳴らし、穢児を痛めつける。そのうち穢児はカグの音と暴力を結びつけて覚えるようになり、カグの音を聞くだけで暴力の恐怖に支配され、従順になるのだ。俺は強い穢だから痛めつけられることがそう負担ではなく、カグを聞いても鬱陶しいと思う程度だが、俺以外は全員がカグの奴隷だった。

しかし、こんなに多重にカグが鳴るのは珍しい。悲鳴が聞こえる。きっと、重大な違反が起きたのだ。

「なんだろう」

聖苑は俺を手放し、俺はようやくその方向を見ることができた。煌月院の者たちが泣き叫び暴れる子供を連れてカグを鳴らしながら穢児舎へ向かっていく。脱走した穢児を捉え引き戻しているのだ。泣き叫ぶ元気があるということは、あの子供は新米だろう。あれほどカグが鳴り響いていて、しかも脱走なら彼が受ける処遇は凄惨極まりない、痛みと不潔に塗れた拷問の極致だろう。

「行ってみよう、廻茱!」

俺は頭が真っ白になって固まった。

「廻茱〜行こうよ〜〜」

聖苑は笑顔でわくわくしたような、待ちきれないといった様子だ。

は、と気づいた。分かった。聖苑には見えていないのだ。あの泣き叫ぶ子供が。人間だから。穢の俺よりも五感が弱いから。今にも殺さんという煌月院の表情も、つんざく悲鳴と鳴き声も、血に濡れた武器も、何も、そう、何も。

聖苑には、何も見えていない。

俺は幼い表情を作って駄々をこねた。

「いやだ!行かない!そんなことより前々回の勝負の続きだ!あれはまだ決着がついてなかった!」

「えー、後でもいいじゃない」

「いやだ!今がいい!今じゃなきゃいやだ!!」

俺は彼の袖をぐいぐいと引っ張って宮の方へ向かった。

あんなものを、聖苑が知ってはいけない。

知ってはいけないのだ。

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