第4話 訪問

約束の日になっても、廻茱はいつもの部屋に現れなかった。煌月院が忙しいのかもしれない。廻茱は政教分離の我が国における宗教サイド、煌月院の所属なのだ。国とは犬猿の仲なので実情を多くは知らないが、廻茱は煌月院で戦闘や一般教養の勉強を受けているはずだ。僕は彼を待ちながら一人で先に予習をしたりして、結局その日を終えた。廻茱は時々約束の時間に来ないことがある。しかしそれでも次の日やその次の日にはふらっと現れるのだ。今回もまたそのパターンだと思って、気長に待つことにした。

しかし、一週間経っても廻茱は現れなかった。これはおかしなことだ。廻茱は皇帝である母が皇子の僕に、煌月院との橋渡し役として引き合わせた遊び相手だ。有事の際には、何かしらの連絡が入るはずだ。1週間という長い不在になんの連絡もないのはおかしい。それに、当然だが煌月院には良い噂は聞かない。なにか、危険なことが起きているのではないかと不安が募った。

廻茱のことを周りの大人に聞いても、誰も彼も要領を得ない答えばかりで、調べようとも探そうともしてくれなかった。

(怠惰め。煌月院絡みだからって渋りやがって。皇子の言葉を無碍にするなんてどうかしてるよ)

憤ったが、憤っても探してくれる人は現れない。こうなったら僕自身が煌月院に会いに行くしかなかった。しかし僕は煌月院をよく知らない。宮から少し離れた場所に穢児舎という煌月院管轄の建物があり、廻茱がそこにいることだけは知っている。しかし、近づくことは禁じられていたため、正確な場所も建物の構造も知らなかった。まずはそれを調べるところから始める必要がある。僕は情報を得るため、焦りと怒りに任せて足早に書蔵に向かった。ひっぱり出した本をしまうことも忘れて読み漁ったが、国と関係が悪いせいか、煌月院の情報は隠されているようで中々有益な情報が見つからない。日が傾き始めた頃になって漸く穢児舎の地図を発見した。

いよいよ煌月院に行こうかという段だが、皇子が行ったとバレないようにしなくてはならない。そのためには夜に行動した方がいいし、服装も地味で、どこにでもいるようなものの方が良いだろう。僕は下女に「勉強のために実物を見たい」と嘘をついて下男の服を用意させた。僕の節操のない勉強好きは宮中で有名だったから、簡単に手に入った。夜中に部屋を抜けるのもすんなり行った。下男とは優秀な職業だ。


穢児舎は竹林を超えた先にあるようだ。雪がまばらに降る竹林は寒い。下男の服は薄い。下男はいつも動いているから、僕より体温が高い前提で作られた服だからなんだろう。しばらく歩くと廻茱に似た香りが漂ってきた。それは近づくうちに段々強くなり、しまいには鼻が曲がりそうな匂いになった。元々この香りを僕は快く思っていなかったが、煌月院の宗教上必要な香だから廻茱につけてあるのだと思っていた。が、どうやらそれは違うようだった。穢児舎の前についたときには、世間知らずの僕でも察さざるを得なかった。外壁は一度も掃除された様子もなく、敷地の周りには元がなんだったのかわからないような腐敗した何かが散乱している。ここの子供達が風呂に十分に入れない不潔な環境に身を置いていることはすぐに想像がついた。そうしたものの吹き溜まりが、穢児舎の匂いを強くしているのだ。時々、廻茱からこの香りが薄れている時があった。それは決まって、大人たちが廻茱を連れてくる時だった。そのときばかりは事前に風呂に入れられ、手入れをされていたのだろう。

僕の心は暗く、沈んで行った。あれほど廻茱と一緒にいて、なんでも知っている気になっていた。それなのに、置かれていた環境にすら気づけないなんて。自分の愚かさがショックで、僕の心は鉛のように重くなった。

しかし、止まっているわけにはいかないのだ。廻茱の部屋を探さなくては。穢児舎の部屋には窓がある。その窓から中を覗こうとして僕は驚いた。あまりにも窓の位置が高いのだ。殆ど屋根の位置にある。これをどうやって覗いたものだろうか。脚立のようなものが必要だ。しかし、縁がない僕は脚立の場所が分からない。夜に下男が脚立を求めるのは普通だろうか?もしそうでなくて怪しまれたら困る。

僕はしばらく辺りを徘徊し、竹林の中に腐敗した角材が放棄されているのを見つけた。

懲罰房と記載があった場所の窓に角材を積み上げる。廻茱が懲罰を受けているなら、長く出て来れなくても納得がいくからだ。きっと廻茱はそこにいる。角材が窓の高さに達した頃には、僕の手は小さな木の破片が刺さって赤く腫れ上がり、よくわからないものでべたべたしていた。嫌な気持ちのまま僕は角材をよじ登り、窓枠に口元が出せる程度の高さに達した。

中を覗いた。愕然とした。僕の心臓はこれ以上ないくらい早鐘を打つ。なぜ?どうして。どうしたらこんなことに。雪の降り頻るこの冬に、廻茱は腰布一枚で冷たい床に横たわっていた。

どうして良いのか分からなかった。彼の肩が上下しているから、生きてはいる。でも、容体は分からない。目を瞑り、真っ白な顔で薄く息をしている。

目の前がくらくらした。どうしたらいい。どうしてこんなことに。

(動揺しても仕方ない)

気持ちを奮い立たせる。

僕が動揺して廻茱は元気になるのか?ならない。では、僕は何をすべきだろう。

ぐしゃぐしゃになった気持ちを必死に押し込め、とにかく頭を回す。

現状が何も分からない。まずは、廻茱の状態を知ろう。どう声をかけるべきだろうか?大丈夫かと声をかける?返事があるだろうか?もし返事ができる状態で、僕が心配していることが伝わったら、廻茱はきっとわざと自分が元気なふりをするだろう。彼はプライドが高いから。何かに負けてる姿を見せたがらないから。

ふと、ここに立っていることが正しいのか分からなくなった。そうだ、彼は今までこんな弱さを僕に晒さずに来た。彼にとって、僕に弱さを晒すことは禁忌なのではないか?

どんどんと僕は冷静になっていく。彼はプライドの高い男だ。僕がこれを『廻茱の弱み』だと思ったら、彼のプライドはズタズタだろう。

今こうして床に倒れている廻茱を見て、今までこうした扱いを受けてこなかったとは到底思えなかった。それらを廻茱は全て隠していたのだ。少なくとも彼は、僕の前で『虐げられる者』というアイデンティティから解放されたかったか、それをなかったことにしたかった。だが隠蔽工作に今まで全くボロが出なかったとは思えない。ただ、僕が能天気で無知だったからそのボロに気づかないで来れたのだろう。僕の無知さに彼のなけなしのプライドが守られていた。

「はぁ…」

僕の考えをよそに廻茱はふと目を開けた。まずい、と思った。もう引き返せない。彼に見つかる。

廻茱はぼうっと壁を眺めた後、ゆっくりと身を起こし、腹のあたりを撫でる。僕はそれを息を殺して見守っていた。

僕の振る舞いが、彼の心にさらに傷をつけるか否かを決める。大一番だ。僕は無垢に、無知に、全く何も察した様子なく、屈託なく馬鹿の笑いを浮かべて声をかけた。

「廻茱」

「!?聖苑!?」

廻茱は目を剥いて驚き、後ずさった。大丈夫。間違えてないはずだ。僕の表情は、悪くない。

廻茱は驚いた顔のまま、怒ったような声で捲し立てた。

「何をしているこんなところで!?ああ…手が悴んで…!頬も…!防寒着は!?」

「下男に化けて来たんだ」

「ばか!」

泣きそうな顔で心配し、怒鳴る廻茱。ああ、そうか…。す、と腑に落ちたのは、廻茱が泣きそうな顔をしているのは自分が弱いところを見られたからじゃない、僕が傷ついているからだ。自分のことを差し置いて一っ飛びに友のことを思うなんて、なんて、優しいのだろう。

僕は馬鹿の表情を変えないで、軽薄に、でも知りたいところは確実に知れるように話を進める。

「ばかったって!もう1週間も来ないんだから…」

廻茱の目が見開かれ、表情が抜け落ちた。危機感を覚える。

「1週間…?」

廻茱は自分が意識を失ってから何日放置されていたのか知らなかったのだ。

僕はふんわりとした笑みを浮かべて、彼が触れたくない話題から話を逸らす。

「寒くなってきたしさ、風邪とかひいてないか、心配で来ちゃった!」

すると廻茱は不敵な笑みを浮かべる。この程度の心配なら彼のプライドを傷つけないことを僕は知っている。

「ふん!風邪などひくものか!」

僕を見返す強気な視線に、少し安心した。その目は気高く、弱さも惨めさも感じられない。いつもの彼のそれで、僕は彼の美しさを思い出す。自信があって、傲慢で、裏打ちする努力を惜しまず、好奇心旺盛で、負けず嫌い。そんな彼を僕は大切に思っていて、そんな彼の隣にいられることが誇りだったと思い出す。

「うん、知ってる。廻茱は強いの」

「この1週間はお前を負かす戦法を立てていた!明日行くから、楽しみにしていろ!」

僕は見逃さなかった。さっと手を広げた廻茱が一瞬血相を変え、出血した腹部を抑えて僕に見えないように隠したことを。

「……っ」

そして、恐れと微かな願いを込めて僕の顔を見る。

僕は月の光のように優しく、無垢で、無知で、浅慮を貼り付けた。

「負けないよぉ」

「ふん、強がっていろ。…人間にはもう寒くなる。そろそろ帰れ」

「うん、そうだね、そうする。またね、廻茱」

「うん、また」


雪の降り頻る竹林を歩く。

しゃりしゃり。しゃりしゃり。

あの匂いが、消えずに鼻腔に残っている。

笹を押し除けて歩く。

しゃりしゃり。しゃりしゃり。

あの赤い血が、消えずに脳裏に残っている。

僕の足が止まる。

僕は赤く腫れ上がった左手を見つめている。

口をいっぱいに広げて、左手に噛みついた。

肉を断ち、骨を砕く。

暫く後、口を離すが左手には、桃色の歯形がついているだけだった。

「…こんなに痛いのに、何も出ない」

「廻茱は、穢だから血が出るの?」

そんなはずがないだろう。

禁書庫に向かうため、僕は再び歩みを進めた。

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