第3話 母罪

夕刻、母君の寝室に向かう道中下女が「また穢(けがれ)と…」と呟いた。微笑みかけると、俯いて下がった。

僕は相変わらず怒りを抱えたまま、寝室の扉の前に立った。

「翠妃(すいひ)。天輪日道輝利宮聖苑祇玉堯鸞

(てんりんにちどうかがりのみやせいえんぎぎょくぎょうらん)にございます」

中から「入れ」と柔らかい声が聞こえた。

重厚な音と共に守衛が扉を開けた。母の輪郭が見えたとき、僕はたまらず破顔する。

「母君!」

「聖苑(せいえん)!」

母の部屋で繕うことは不要だ。母は優しく微笑んだ。

「今日はとても体調が良いの、今机を退けるわ、早くあなたを抱きしめたい」

母は溌剌とした笑顔で、寝たまま執務ができるようあつらえられた机を押しやると両手を広げて僕を迎える。僕は一目散に母の元へ行き、その柔らかな毛布越しに母の上に寝転んだ。母は嬉しそうに布団ごと僕を抱きしめてくれる。

「会いたかったわ、聖苑!今日も何か楽しいことがあったの?」

「あぁ…ええ、今日も…」

「今日は何かあったの?少し浮かない顔だわ」

母はなんでもお見通しなのである。僕は安心して、今日の出来事を話した。

「廻茱にあんな態度を取るなんて、先生も、先生にそう言わせる宮中の奴らも、みんなみんなおかしいですよ」

「そうね…」

「母君?」

歯切れの悪い母の顔を覗き込むと、後悔と自責に苛まれている。僕まで不安になる。

「私のせいね…」

「え?ど、どういう…」

母は疲れた表情でぽつりぽつりと話した。

「穢児を作ろうという話になった時…その管理の権利を煌月院に取られてしまったのよ。私が…国がとっていれば、廻茱たちを宮中で幾分良い地位につけさせることができたはずなのに…」

母は諦めたような顔で続けた。

「でも…もし国に管理権があっても、やっぱり偏見は根強いでしょうけれどもね。今まで私たちは穢によって害を被ってきたのだもの。そう簡単に価値観を変えられないわ。大人なら尚更ね」

母はひと時目を瞑り、苦しそうに思案した。

「あなたがあの子を思う気持ちは痛い程分かるわ。偏見との戦いの厳しさも。二人して、辛い立場に置いてしまったわね。でも、母がどうにかしてみせるから」

母の困ったような弱々しい笑顔に反骨心が湧く。母がそんな表情をしているのも嫌だが、そもそも母の話には通りが通っていない。

「管理権を取れなかったのだから、せめてそのくらいは私に任せて」

「いえ、母君。廻茱に降りかかる火の粉は僕も払いのけましょう」

母が目を丸くする。

「母君一人が国を治めているのではありません。皇子ではありますが、僕も皇族の血を引く者。国を背負う者として、全ての結果を母君と共に僕も負うのです」

皇族に生まれて、皇子として、皇族の決定は過去のものも未来のものも、全て皇族の血を引いた僕に関わりがあるし、僕はその全てに責任を持つ。それは当然のことだ。

しかし母が寂しそうに目を伏せてしまった。そして優しく言った。

「立派ね。そう…」

迷いながら言葉を紡いでいく。

「私は皇帝として、あなたにそうあれと言うべきなのでしょうけれど、でもね、私は…私は、あなたにはもっと、子供でいて欲しいわ…」

「母君…」

母は祈るように言った。

「お願い。このことは私に任せて…。あなたは何も気にしないで、また何度でも、廻茱と遊んで」

母は僕を腕に抱き直し、微笑んで言った。

「偏見に憤ることはないわ。あなたの考えは正しいのよ」

僕は廻茱の、自分の、全てが認められたような気分になって、心が澄んでいく喜びを感じた。

「廻茱とあなたを引き合わせて本当に良かった…。廻茱と遊ぶようになってから、あなたは本当に変わったわ!」

「そうですか?前はひどかった?」

「ひどいというわけではないけれど…心配だったの」

思い当たる節がなく首をひねる。

「あなたは生まれつき賢かったわ…。勉学に明るいというだけではなく、世界の成り立ちすらすぐに理解してしまった。子供ながらに、大人さながらの知識を持ってしまった」

「困ったことはありませんよ」

「ふふ…あなたはいつだって誰にだって親切で、適切に接していたわ」

「…悪いとは思いません」

「知恵があり、すべての人に平等に適切に接する。それはね、人ではないわ」

「……?」

母の意図を測りかねた。完璧に振る舞えるなら、諍いは起こらないし、それは良いことだと思った。

「あなたには人でいてほしかった…。機械のような神童ではなく」

母が僕を抱き寄せ、頬を重ねる。

「廻茱に出会ってあなたは変わった。子供らしく喜怒哀楽を表現し、廻茱に対してあらゆる考えや行動を取り、それらは全てあなたが本気で本心から取り組んだことで、溌剌として輝かしいことだったの」

あまり分からない。でも、廻茱に会ってから日々が楽しいのは確かだ。母の話を全て理解できなくとも、母が嬉しいならそれで良いとも思った。

母は一度強く目を瞑ると、いつもの優しい笑顔に戻った。

「さぁ、難しいことは後にしましょう!次はいつ廻茱と遊ぶの?」

「明後日です!」

「そう。楽しみね」

母は僕を慈しんで言った。

「よく遊びなさい。大切にし、思いやりなさいね」

母は僕の頬を撫でた。

「彼はあなたを人間にしてくれるのだから」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る