燃える家

西絛まつり

燃える家



 建物が囂々と赤く燃えている。4m程離れているのに、風に乗った熱気が押し付けられ、肌がピリピリとするほどに熱い。燃えているのは、私の家。火は瞬く間に転移していく。それは末期癌の細胞のように、火元のリビングから部屋をひとつずつ蝕み、とうとう3階の一番奥、私の部屋まで到達し、赤く赤く燃えている。3階の窓はひとつしかない出窓で、遠くからもよく見える。不謹慎にも一番見栄えの良い場所が燃え、その様は見事だった。喉のやけるような熱さと口渇感と酸欠で頭がおかしくなって、物凄い高揚感が脳を駆け巡る。家屋倒壊のフェーズが進んでいく様子は花弁を一枚一枚剥がしていくかのようだ。誰も知らない花の、見たことの無い雌蕊を見られる探究心を満たす快感と恍惚。

 熱による上昇気流で舞い上がった学校から持ち帰ったプリントや、お気に入りのアップライトピアノの燃えかす、ビニールが焦げるような異臭がひたすらあの3階の窓から人を追いやるように立ち込める。

 全てを消し炭にして帳消しにしてくれるだなんてそんな都合の良いこと許されるだろうか。でもきっと誰にもバレないから断罪されない。私の一人勝ちなのだ。

 リビングで灯油ストーブを使って布団を炙って、そのまま火を家屋まで移した。母親は優しい人だった。身体の一部を形見にしたかったけれどそれでは足がつくので仕方がなかった。

 小さい頃から母の口癖は、みっともない、と私の子なんだから、だった。

 二種類のサイレンの音が聞こえる。救急車と、消防車。もう何もかもが遅いのに。中で燃ゆる母はもう喋らない。警察も消防士も意味の無い足労をかけるのが間抜けで笑えた。私はただただ笑顔で立ち尽くした。全てを持ち去ってくれる熱い抱擁はあまりに美しくて。慈しみに触れてしまって、癖になってしまいそう。

 母は優しかった。そしていつもその優しさで私のことを導き続けてくれた。でも逆に言えばノーは言わせない人だった。

 こんな、私という膿を丹精込めて作って、気づいた時には癌細胞。今日の昼過ぎ、学校から帰ったときに母はいつものように私に声をかけた。

「あんた勉強しなさいよ。私の子なんだからもっと頭いいはずでしょ、このまんまじゃ生きていけないよ。」

 これはいつも言われてる。雨上がりの滔々と噴き出す川をぼうっと見つめるみたいに、いつも何も言い返したりせずにやり過ごす。

「あんた聞いてんの!?次はもっといい点取ってきてみせてよ!わかった!?」

「わかりました、ごめんなさい。」

 大抵母は謝れば収まっていく。でも今日はなんだか虫の居所が悪かったみたい。私は母ともうやり取りをしたくなくて部屋にひきこもっていた。それから20分程してから母は部屋に入り込んできた。

「今日という今日はもう許さないから。」

 そう言って母は私の鞄をひったくり、ひっくり返した。帰り道で買って食べようと思っていた生菓子や塾のテキスト、筆記用具などが全部ぐちゃぐちゃに混ざって収拾がつかなくなる。母は一体私に何を望むのか。その鞄をひっくり返しても何も出てこないのに。ただその様子をじっと、静かに見つめた。

 母はまた嵐のように去っていった。こういう日は決まって周期があって、1回のやり取りでは絶対に追われない。多分、この後私にとって一番辛い時間が来る。

「ごめんね、汚しちゃって。いつも怒鳴ってごめんなさい。」

 母はまた不躾に私の部屋の扉を開けたかと思うと開口一番謝ってきた。私はどうすれば良いのか。機械のように頷いておけば良いのか。

 本当に気持ち悪い。

 ダムが決壊するのを感じた。


 母はある年齢を超えたとき辺りから酷い不眠症にいつも悩まされていた。だから睡眠薬を服用してからそのままリビング横の和室で泥のようにいつも眠る。服用するのを見守ってから、大体、1時間くらい経ったときに、家を燃やした。3階まで木材の焼ける匂いが漂い始めてから、あの出窓から庭へと飛び降りた。


 母の葬式はしょうもなかった。消し炭になった母は跡形なく骨壺は空っぽだし、墓も空っぽ。親戚たちが涙ぐましく挨拶を寄越すがどんなに同情されたって、皆私のことは知らないし、私の代わりにはなれない。ただただ、棺に花を添えるときに手が震えた。

 坊さんの供養と、親戚への挨拶もそこそこにやっとの思いで家に帰った。

 晩飯の為に電子レンジで温めた白米に、かき混ぜた納豆をかけた。その上に生卵をのせた。つるんとした透明と黄色の生卵が納豆の豆と豆の間に絡みついていく。温かな米が湯気をたてて納豆の匂いを鼻腔へと運ぶ。一口、かき込んだ。途端に生卵の生臭さが、納豆の粘り気が、えもいわれぬ嫌悪感を誘って嚥下を不能にさせる。適当に咀嚼した大粒の内容物と辛子が鼻を逆流し酷く刺激して涙が溜まる。

 どうにも飲み込めなくなって水で流し込んだ。

 ひとり、暫くぽろぽろと涙を流した。母はいつもこんなとき、

「あらあんた、みっともないわねえ。ほら、ゆっくり食べなさい。」

とかいって親らしく包み込んでくれるんだろうな。

 焼けた炭の匂いがまだ鼻腔から消えない。私は暫くそのままみっともなく落涙し続けた。



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燃える家 西絛まつり @ni_shi

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