第3話:出会いは恋のように
*
まあ、小説でもあるまいし、出会ったばかりの美しい女性と僕が何かの事件に巻き込まれるとか、スマホを落とした縁から恋に落ちるとか、女性の正体は初恋の幼馴染だったとか、そんな都合のいい奇跡が現実にあるわけがない。現実見ろよと自分を戒めつつマンションへ向かうと、反対側から例の女性が歩いてきた。
――これは夢か小説か。こんな都合のいい奇跡があるなんて、現実というものも捨てたもんじゃない。
女性は周りのビルや店舗を一つ一つ確かめているようで、僕と目が合うと、
「すみません、天王寺駅って、こっち側でいいんですよね?」
と、先ほどと全く同じ質問をしてきて、駅とは逆方向を指さした。やはりこの人、方向感覚がかなり怪しい。
「そっちだと天王寺駅へ着くのに一年ほど掛かりますよ」
「あ、そうなんだ……あれ? もしかして、さっきもどこかで会いました?」
「はあ……JRの福島駅と、それからモトヤ書店でも隣にいましたよ」と、モトヤ書店の買い物袋を目の前にぶらんと掲げた。
「わ、そうなんだ。奇遇ですね、気が付かなかった。楽器は何をされているんですか?」
「……クラリネット」
気が付かなかった、という素直な響きに、僕の存在感の薄さが感じられるというか、彼女の天然っぽさに拍子抜けしたというか、いろいろと思うことはあるけれども、これで女性との会話が生まれたのは大収穫だ。駅への道を教えますといい人アピール全開にして、女性との親睦を――下心を見せぬようにして試みた。女性はフルート専攻の音大生で、現在はフランスに留学中だという。
「一昨日、兄の結婚式があったんで日本へ戻ってきたんです。せっかくの機会だし、知り合いに会いたいなって大阪まで来たんですよね。でも大事な急用が出来たからって、ドタキャンされちゃって」
こんなに魅力的な女性をドタキャンするなんて、不届き千万、何たる輩だ。男か、それとも女か? どうか女友達でありますようにと祈りながら、「どこで待ってたんですか」と話を続けた。
「大辻製菓専門学校です」と、女性は答えた。大辻製菓専門学校は天王寺駅の向こう側だ。どこをどう歩いたらここまで辿り着くのだろう。
「パティシエ目指している人なんですよ。彼の住んでるアパートと、それからバイト先も近くにあって」
「彼」という一言を聞き逃さなかったのは言うまでもない。暗くなったアスファルトの道が、固まり切らないコンクリートの泥沼になったようで、腰半分までズブズブと埋まるような感覚に陥る。
「私もすぐに関空へ行かなくちゃいけないし、会えるのは今日だけだったのに……」
「そっか、それは残念ですね」と僕は素っ気なく答えた。野郎の話なんてすでに興味は失せている。「でもまた会えるでしょ。ネットでも電話でも、話す方法はいくらでもあるんだし」
無難で取り留めのない僕の回答に、女性は深いため息をした。
「私と彼って、いつも何かがズレちゃうんですよね。私はフルートを頑張りたいし、でも彼はパティシエで、やりたいことがまるで正反対。今日みたいに約束していても、ドタキャンくらっちゃってタイミングは合わないし、連絡もあんまりしてくれないし、会いたいときにも全然会えない。最初はすっごく寂しかったんですけど、今はもう慣れっこになったっていうか、これも運命なのかなあって諦め半分になっちゃってます」
三階建ての駐車場から黒いワゴン車が出てきて、歩道の真ん中で僕たちは立ち止まった。車の往来が止まなくて黒のワゴン車はなかなか歩道を開けてくれない。道路の向こう側のビルの分け目からJR天王寺のビルのてっぺんが顔を出していて、光の窓を夜空に浮かべている。この道を行けば、駅はもうすぐ目と鼻の先だ。右方向に点滅する黒ワゴン車のウインカーを見ながら、女性の気持ちにどう応えようかとしばらく考えた。
「まだ諦めなくてもいいんじゃないですか」と、女性の顔に目を遣った。「違う方向へ行った電車が、同じ駅へ向かうことだってあるんだし」
黒ワゴン車が動くのと同時に、女性の瞳がこちらを向いた。大きな瞳で僕の頭の中を探るようにして。夜の瞳は水で潤み、駅から届く光を躍らせていてとても美しい。清水に洗われたような白肌は、ミファとどちらが綺麗だろう。
……なんて、瞬時奪われた心を取り戻すように咳払いをして、僕は一つ問題を出した。
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