第2話:フルートの女


 僕のお気に入りの楽譜店であるモトヤ書店は、JR環状線の福島駅から徒歩五分のところにある、福島ビルの二階にある。戦後から続いているという老舗の楽譜店らしく、オーケストラや吹奏楽のフルスコア、各種楽器の練習曲、声楽、アンサンブル曲に至るまで、国内外の楽譜を専門的に扱っており、その豊富さは難波にある有名ミュージック店と並ぶほどに規模が大きい。ここに来れば大概の楽譜が揃っているので、アンサンブル曲を探すため、高校のときから何かと世話になっているお店だ。


 人がようやくすれ違えるほどの狭い通路の両脇は、床から天井、通路手前から奥に至るまで隙間なく楽譜で埋められていて――それこそ、木セク部屋の漫画棚など目じゃないくらいに――、楽譜の山の作り上げた圧迫感が凄まじい。楽譜に襲われそうという表現がまさにピッタリで、この楽譜の圧力を心地よく感じられるようになれば一人前だと、一緒に来た高校の先輩は苦笑していたっけか。ブラームス、シュトラウス、ドビュッシー、シベリウスといった名前が書かれたインデックスを順繰りに見遣り、ピアノ、ギター、バイオリンなどの楽器の目次へと辿り着く。クラリネットのインデックスはフルートの隣にあり、さすが需要度の高い楽器と言うべきか、棚一つ分丸々クラリネットの楽譜で埋められていて、品揃えはオーボエ、ファゴットの約二倍、ダブルリードたちとの格差が申し訳ないくらいだ。


 フルートの棚で腰を屈めて楽譜を探していた女性と体がぶつかり、すみませんと謝った。僕と同じ大学生だろうか、真っ直ぐな黒髪と和らげな瞳の印象的な女性で、花の蜜のような甘い香水に心臓が大きく反応してしまった。慌てて楽譜に目を遣るも、隣の女性の香水につい気が向く。楽譜の背をなぞりながら探す指は、音楽への愛しさと大切なものを逃すまいという几帳面さが優雅な動きに現れていて、この指が触れるフルートもさぞや幸せな気分になるだろうと、あれやらこれやらピンク色の花弁の舞うイメージが次々と湧き出てくる。ミファのときもそうだったけど、僕は美人という人種にめっぽう弱い。


 クレプシュ、ランスロ、オッパーマンなどの教則本を手当たり次第に開いていき、スタークの一冊を選んで中身を調べた――うん、難易度はやや高いけど、練習するには楽しいかもしれない。フルートの女性を横目で伺うと、モーツァルトからビバルディ、テレマン、メンデルスゾーンといった作曲家の協奏曲をいくつか選んで、熱心に楽譜を読んでいた。店内には僕たち二人しか客がおらず、綺麗な女性と好きな音楽に囲まれた世界が夢のようで、ラッキーな出会いに気分も上がる。


 が、このチャンスをものにできないのが僕の悲しい性なのだ。出会ったばかりの女性に、どこの大学のオケですか、なんて尋ねる度胸があるはずもなく、いい曲選んでますね、こちらもいいですよといった、気の利いたインテリ情報も持ち合わせておらず、ましてや指が触れるといったアクシデントも起きやしない。気もそぞろなうちに女性はレジに進んでしまい、僕のささやかな幸運は数分のうちに消滅した。気を落としながら、僕も教則本を購入してビルの外へ出る。


 先ほどの女性は数メートル先を歩いていて、僕もその後を追うように歩く。青空から紅葉の風が吹き下ろす、福島駅への帰り道。紅葉の風に舞う長い髪と、華奢な背中と、揺れるロングスカートと、黒いフルートケースらしきものを無意識に追いかけながら、いやこれは駅までの帰り道が一緒だからとかなんとか、心でごちゃごちゃ見えない誰かに弁明しつつ、付かず離れずの距離を保って駅へ向かった。途中何度か道を間違いかけていて、大丈夫だろうかと不安に見守る。


 ホームに入ると、ここでも女性はキョロキョロと首を振って周りを伺っている。左右両側の線路を何度も眺めながら看板で駅名を確かめたりしていて、ははあ、どうやら内回り線と外回り線で悩んでいるのだろうなと見当をつけた。さっきも道を間違いかけていたし、となると大阪の人ではないのだろうか。内回り線の方へ立って線路向かい側のスーパーの看板を何気に見ていると、「あのう」と女性から声が掛かった。


「天王寺駅って、こっち側でいいんですよね?」


 ああ神様、こんな僕に幸運を授けてくれてありがとう。帰って真面目に勉強します。なるだけ表情を押さえながら「そうですよ」と答え、よかった、と彼女が微笑む。なんて温かみのある笑顔だろう。神様には感謝、感謝だ。来年の初詣は賽銭を五百円に奮発しよう。


 電車内には客がまばらに立っていて、僕と彼女は二メートルほど離れた場所に立った。吊革を持って、左手で首を掻きながらちらりと女性を見たりする。女性は扉付近の隙間に立ち、窓に流れる建物を見送っているようだった。ビルの合間に何かを探しているような、見慣れぬ景色を楽しむような、それでいてなんとなく物悲しそうな。野田駅に付いて前の席が空いて座ると、女性の姿が手前の男性の陰に隠れた。僕の束の間の楽しみは奪われて、「次は西九条に止まります」というアナウンスを耳にしながら、行き場のない虚しさを瞼の裏に閉じ込めた。


 ――次は、新今宮に止まります、というアナウンスで目が覚めた。西九条じゃなく、新今宮だって? いやはや、電車の揺れが心地よすぎて、寝ている間に四駅も通り越したようだ。あと一駅で天王寺となる。目的地はもうすぐだけど、あの女性はどこだろう。先ほどよりも乗客が増えていて確認できない――というか、窓の外の景色に違和感を覚える。秋の青空はどこへやら、陽がとっぷりと落ちていて、午後四時過ぎにしては暗すぎる。


 次第に意識が覚醒してきて、あっと思ってスマホを取り出した。十七時半という時刻を確認して絶望した。


 女性がいるはずないじゃないか。天王寺駅はとっくのとうに過ぎている。


 僕は環状線を一周以上、一時間近くにわたり、電車の中でぐっすり眠りこけていたのだ。

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