第9話 あわいの章
凪は里の中を避け、里と山際の境の藪の中を急いだ。酷く揺れている筈なのに、胸元に括り付けられた赤子は大人しく眠り続けている。暫くは泣きださない様に、ひいが薬でも飲ませたのだろうか。赤子の吐息に甘い匂いが混じっている。
(よしよし、もう暫く大人しく寝ててくれよ)
藪の中とはいえ、行き慣れた道だ。すぐそこは里との境で、まだ日も高い。違えることなどある筈がないのに。
(どうして里から出られない。これが、かげろう様の、いや、あわいさんの力なのか……)
流石に誰のせいなのか、あたり位はつくものの。
見慣れた筈の景色に、自分が何処に居るのかすら判らない。無数に現れる分かれ道に、頭がぼんやりとして足が止まり、またふらふらと歩き出す。果てしなく続く道にも、いつしか、疑いすら覚えなくなる。
何度目か足を止めた凪が顔を上げ、鼻をひくつかせた。
獣道の一本から独特なにおいが漂っていることに気付く。
樟脳の、におい。
流れてくるにおいに、霞がかった頭が次第にはっきりしてゆく。分かれ道に差し掛かる度、においの強い方へと進む。凪の足取りがしっかりしたものに変わり、やがて駆け足になった。
走って走って、もうこれ以上足が動かなくなるまで走り、凪は道の端に隠れるように座り込んだ。眠る赤子をしっかりと抱きかかえる。乱れた呼吸が少し治まり、頭を上げると、そこは既に里の外だった。
(いよいよ、里へは戻れんな)
凪は顔を上げると歩き出した。細工物の取引で馴染みの商人は、ここからそう遠くは無い里で暮らしていると聞いている。日が落ちるまでには辿り着くだろう。
(あちこちに商いに行くって言っていたし、落ち着く先を世話して貰えるかもしれん)
歩きながらここ数か月のことを想い返す。つがい様に選ばれた日。祭主家での暮らし。毎晩のように身体を重ねた女。赤子の行く末を案じていたひいの顔。
その殆どが幻と知った今も、かげろう様に恐れも怒りも感じなかった。
(思えば、あの家で俺は本当に嫌な目に遭うことはなかった。あの女……あわいさん、のことも、払いのけようと思えば出来たのに、俺はそうしなかった)
あわいの美しい顔が胸を過る。身内の様に感じ始めていたひいとの遣り取り。いつの間にか、あの家での出来事がは自分の一部になっていたのだと、凪の胸が微かに痛む。だが。
凪が足を止める。
赤子は凪の腕の中で、すやすやと眠っている。
詳しいことを聞かされる時間など無かった。それでもひいがあれほど必死で逃がそうとしていたのだ、幻にされるということがどういうことなのか、誰がそれを行おうとしているのか想像はつく。
(俺はりんさんと、困っている誰かを助けるって約束した。この子もひいさんも、間違いなく『困っている誰か』だ)
赤子が目を覚ました。
ぐずり出した赤子をあやし、凪は身体をひと揺すりすると道具入れを担ぎなおし、神社のある方角へ深々と頭を下げ、今度こそ振り向かずに歩き出した――。
その僅か前。
神域の、波一つ立っていない淵を覗き込んでいたあわいが柳眉を逆立てた。
(ひいめ、余計なことを……!)
握りしめた拳が、わなわなと震える。
この数日、ひいが何やら隠し事をしている事には気付いていた。まさか、凪を里から逃がそうとは、かげろう様にとって、いや自分にとって、許し難い裏切りだ。
「かげろう様の力、お借りいたします」
白濁する淵に、赤子を抱えた凪が映し出される。あわいが水面に浮かぶ凪に手を翳すと、凪の前の風景が歪んだ。淵に映る凪が焦りを浮かべた顔で立ち止まり、きょろきょろと周囲を見回す。
「逃がさぬぞ、婿殿」
にたっと笑ったあわいの顔が、やがて焦りを見せ始めた。
淵の中の凪は、分かれ道に差し掛かる度に逡巡するものの、直ぐに正しく里の外に向かう道を選んで走り出す。あわいが何度邪魔をしても、凪は正しい道を選び続ける。
ぎりっと、あわいが奥歯を鳴らす。
「何故だ、何故迷わぬ」
「もう、お諦めになってはいかがでございましょう」
風のような響きの声に、あわいがゆっくりと振り返った。あわいの視線と、ひょろりとした影の眼が合う。
「誰だ」
「薬売りでございます」
いつの間にかあわいの背後に立っていた影から漂うのは、樟脳のにおい。
あわいは影を一瞥し、
「薬など必要ない。邪魔だ、居ね」
突如、彼等の周囲に業火が上がった。影は慌てるでもなく、口元を三日月形に釣り上げ、
「商いの回収に伺った次第でございます故、そうも参りません」
「商い?」
炎の中、木彫りの面の様なのっぺりと張り付いた笑いを崩さず、影が頷く。
「はい。実は先日、凪様と取引いたしまして、まだその対価を頂戴していないのです」
業火を背負ったあわいが、ゆらりと立ち上がった。
「銭を欲している様には見えぬが」
「別の物を頂戴することになっております」
「いいだろう。その度胸に免じ、婿殿に代わって何なりと支払ってやる。だが後だ。今は忙しい」
「いえ、貴女様がお支払いされるには、困難なものでございますから」
少し困ったような影の声に、あわいが顔を歪めた。
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