第8話 幻の章

 疑問に答えが出ないまま日は過ぎ――脚に怪我を負った凪が、通りがかった薬売りに助けられた日の夜。


 薬売りが塗ってくれた薬は効果覿面だったが、僅かに残る引き攣れるような痛みが、どうしても動きを制限する。怪我のことは黙っている心算でいた凪だが、夕餉を運んで来たひいは、すぐにその違和感に気付いた。


「偶々通り掛かった薬屋が手当てしてくれたから、平気だ」


 問い質され、きまり悪げに言い訳する凪に、ひいが呆れたように、


「偶々通り掛かった薬屋が居なかったら、どうしてたんです。童じゃないんですから、お気をつけください……あら」


 凪の脹脛に巻かれた布を解いたひいが、思いの外大きな傷に息を呑んだ。とは言え既に傷の一部はくっつき始めている。


「ほら、本当に大したことないんですってば」

「とんでもない、大した怪我ですよ! まったく……ご自分で思ってるより、ずっと深い傷ですよ。でも、この有様で肉がくっつき始めてるなんて本当に良い薬だこと。その方に出会えたのは僥倖でしたね」


 布から微かに立ち上った樟脳のにおいに、ひいが鼻をひくつかせた。


「ああ、これはりんさん……薬売りのにおいだよ。痛っ」


 手際よく傷に布を巻き直し、ひいは凪の脚を軽く叩いた。凪はぶつくさと文句を言いながら、用意された膳に手を伸ばす。

 ひいが首を傾げた。


「それにしても、その方、この近くまで来たことがあるって仰ってたんですよね? そんなに目立つ薬屋さん、里に来たことあったかしら」

「里には寄らなかったんだろう。俺も見覚えのない人だったよ」


 薬売りについて熱心に問うひいに、食事の手を止めず、


「なんだい、ひいさん。りんさんに興味あるのか」


 揶揄う凪に、ひいは真剣な面持ちで頷く。


「良い薬はいくらあっても困りませんもの。こちらにもお寄り頂けないかしら。つがいさんを助けて頂いたお礼もしたいですし……」

「まだ近くに居るかもしれないけど、どうだろうなあ。薬の材料集めの途中だったみたいで、山に入って行ったよ。まあ、今度会えたら、神社に寄ってくれるよう頼んでみますよ」

「山の何方に向かってましたか?」

「え? 確か、崖下の大椚の方……ほら、こっから見て、神域の丁度反対に入っていったよ」


 ひいは俯き「大椚……」と、声を出さず呟くと、顔を上げた。


「ごめんなさい、こんなに喋ってたらお食事が進みませんよね。暫く黙ってますから、ゆっくり召し上がって下さい」


 そう言って、ひいは凪から目を逸らし、僅かに瞳に焦燥を滲ませた目を母屋に向けた。凪もまた、ここ数日心にかかったままの問いに沈みかけ、己を誤魔化すように飯をかき込む。

 互いの違和感に気付かぬまま、夜は更けていく。




 数日経ち、凪の怪我が殆ど癒えた頃。


「お仕事中、申し訳ありません」


 いつものように離れで作業をしている凪に、部屋の外から声が掛けられた。離れで暮らすようになってから、仕事中に声を掛けられるのは初めてのことだ。

 凪が返事をする前に、赤子を抱えたひいが部屋に滑り込む。ここ数日のひいは常に忙しそうで、ゆっくり話す機会がなかったが、改めてその顔色を見て凪は眉を顰めた。

 ひいは思い詰めた顔で凪に赤子を押し付け、床に深々と額づいた。


「お願いがあります。どうか、この子を連れて里を出て下さい。まだ日の出ているこの時、そして満月でもある今日が好機なのです」


 押し付けられた赤子を放り出すわけにもいかず、凪は赤子を抱き抱えひいと赤子を交互に見て、


「顔を上げてくれ。急にどうしたんだ。この子が、例の預かってるって赤ん坊かね? 逃るって、何から? それに、満月がなんだって?」


 ひいは、用意した銭入れと、床に散らばる凪の細工用の道具を道具袋に突っ込みながら、


「このままでは、この子もここから離れられなくなってしまいます。私達と同じ幻にされてしまう。銭を用意しました。これで、この子をきちんと育てられる方を探してやってくれませんか。そして、貴方も赤子も二度と里に戻らないで下さい」


 早口でまくし立てられ、凪が慌てて口を挿む。


「幻? 何を言ってるんだ?」

「見ていてください」


 ひいは突然、凪が手にしていた小刀を取り上げ、思い切り自分の腕に突き立てた。腰を浮かせる凪を手で制し、腕から抜いた小刀を凪の目の前に翳す。

 凪の目が見開かれた。赤く染まる筈の小刀は銀色のままで、ひいの腕からは血の一滴も流れないどころか、腕にも衣にも穴一つ開いていない。


「必要ならば、怪我を装うこともできます」


 ひいが腕をすっと撫でると、忽ちひいの袖と腕に穴が開き血が噴き出し、床に血溜りを作った。再びひいが腕を撫でると、もう袖の穴も傷もどこにも無い。床に垂れた血も綺麗に消え失せている。

 口をぱくぱくとさせる凪に、


「この神社の女は皆、身動き出来ないかげろう様がご自分を守る為に呼び出した幻なのです……信じてくれますね?」


 ひいの言葉は、完全に凪の理解を越えていた。それでも、目の前で起きたこと、何よりひいのただならぬ様子に、半信半疑ながらも頷く。

 ひいは、ついさっき腕に突き立てた小刀も道具袋に仕舞い、


「かげろう様につがいさんが必要なのは、かげろう祭りの夜。祭主家がその後もつがいさんのお世話をするのは、あの一晩への謝礼のようなものです」


 一人分のみ用意された夜具は、なのだ……意味を悟った凪の頭の芯が冷える。


「……ですから、かげろう様は既に凪様に関心がありません。かげろう様は今までもこれからも、誰かを害することも、つがいさんを追うこともないのです。でも、あわい様は……」


 半ば答えに気付きながら、凪は乾いた口を開いた。


「あわいさんが、どうしたんだ?」

「申し訳ありません、全て知ってしまいました。いえ、気付くのが遅すぎたくらい。夜毎に貴方を訪れているのは……あわい様です」


 赤子の話題になったあの日から、つがいさんの様子が気になって、夜の離れを見張っていたのです……ひいが詫びた。

 この処、あわいと殆ど顔を合わせることが無かったことに、もっと早く気付くべきだったのだ。ひいは己の迂闊さに臍を噛む。

 夜毎の逢瀬を指摘され、凪は気まずそうに目を逸らしたが、すぐに我に返り、


「あの、あのひとは、本当にあわいさんなのか?」

「あわい様がつがいさんに通うなど、これまで一度もありませんでした」


 ひいは凪の問いには答えず、


「あわい様は怖い方です。貴方をつがいさんに選んだのは誰ですか? 本来つがいさんに選ばれる筈の方はどうなりましたか? 幻には何も出来ないとお思いなら、それは間違いです」


 凪の脳裏に、発作を起こして死んだ、片腕が不自由な男の面影が思い出された。まるで、恐ろしいものに襲われでもしたかのように、目を剥き、歪み切っていた、男の最期の顔。


 なぜ、と呟く凪に、憐れみを含んだひいの声が被さる。


「……本当に分かりませんか? あわい様の気持ちが」


 口ごもる凪に、ひいが改めて頭を下げた。


「こんなことを頼める義理ではないことは解ってます。でも、今の私では貴方にお願いするよりない……どうか、貴方もその子も、うつつに生きて。そして、出来ればかげろう様のことは綺麗さっぱり忘れて、誰にもお話にならないでください。かげろう様は、ただ静かに暮らしたいだけなのよ。お願い、……」

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